【連載コラム】神々のふるさと対馬巡礼の旅 vol.1

I.はじめに

北緯34度、東経129度、朝鮮半島より50km、博多より138km離れた海上にひとり対馬は険峻の山塊を浮かべている。面積は708.6平方キロメートルと日本の島嶼部としては佐渡島(854平方キロメートル)、奄美大島(712平方キロメートル)に次ぐ3番目の大きさを誇る。島数は本島のほか107(内、有人島5)の小島を数え、典型的な溺れ谷の地形を成している。

 

対馬海峡

対馬海峡

H27年5月末現在の人口は32,669人(対馬市HP)と、ピーク時の69,556人(昭和35年)から半数以下と急速な高齢化、過疎化が進んでいる。また、高齢化比率も直近の国勢調査(H22年)においても29.4%と、全国平均の23.0%を大きく超えている。さらに、住民票を移さぬまま島外に仕事を求め転出している人も多く、実際に島内で生活する住民は3万人を切っているとのことであり、その実態は数字以上の深刻度を増しているとみられる。

さて、そうしたわが国の現代社会の縮図のような国境の島、対馬であるが、角度を変えて歴史的観点から眺め直して見よう。現在の行政地域において対馬は長崎県に属する「市」という行政単位で把握されるが、古来の律令制下においては、いわゆる「五畿七道」の「西海道11ヶ国」を構成する「対馬国」という令制国(リョウセイコク)の位置付けにあった。それは九州より朝鮮半島に近いという地勢的条件から、大陸・半島からの文物流入の道筋として、また、半島国家との軍事抗争における軍事拠点として「津(湊)の島」が要衝の地として重要な位置づけを占めていたことを示すものでもあった。

その対馬は半島との濃密な交流の中ツ道であり、日本という国家が形成されてゆく過程を伝承や習俗という形で今の世に残す語り部のような島である。それはまさに、日本の始まりを物語るDNAが悠久の時の流れのなか「津島」の湊や瀬戸に揺々として繋留されているかのようでもある。そして、静謐のなかエメラルド色をした鏡のような水面を張る美しい入り江を眺めていると、国家創始というDNAの「鎖の艫綱」が何時の日にかロマンあふれる人物の手によりその謎の軛(クビキ)が解き放たれることを静かに待ち望んでいるように思えた。

 

対馬海峡に昇る太陽

対馬海峡に昇る太陽

その謎解きのヒントとなるのだろうか、対馬にはかつてこの国が倭と呼ばれた時代、歴史上、大きな役割を果たし重要な位置付けを占めていたことを示す伝承や神事が数多く伝えられている。 そして、その多くは神道や天道といった信仰を通じ、神社や神籬磐境(ヒモロギイワサカ)、不入の地といった「場」の形式や、亀卜、赤米神事といった古代習俗の継承保存や土地に伝わる伝承という形で今の時代まで継承され、語り継がれてきている。それらの詳細はこれからおいおい具体的な文献資料や伝承によって述べてゆくことになるが、ここでひとつだけ端的な例を挙げておく。

神社を語る時、「延喜式神名帳」の「式内社」云々という神社の格式を表わす表現をよく目にするが(注1)、その式内社の数が対馬と隣の壱岐は異様に数が多いという点である。即ち全国の式内社は2,861社を数えるが、その内、西海道11ヶ国(注2)には107社が存在する。そして対馬には29社(名神大社6、小社等23)、壱岐に24社(同6、同18)、筑前国19社(同8、同11)と、この3地域で計72社と西海道の式内社数の2/3を占め、とくに対馬は29社と西海道最多の社数を誇っている。 そのことは、「神意」を政(マツリゴト)の中枢に据えた時代において、そうした多数の神社を朝廷が認定し厚く庇護したことは、当時の対馬の重要性を素直に裏付けるものといってよい。

さて、本稿の作成にあたっては鈴木棠三(トウゾウ)の「対馬の神道」(三一書房/1972年1月出版)および「日本書紀」(1、2巻/日本古典文学全集 小学館・以下「紀」と云う)、「古事記」(同 小学館・以下「記」と云う)を主たる文献として利用し、参考とした。就く、「対馬の神道・第二部」掲載の「対州神社誌原文」(貞享三年(1686年))並びに同氏により補充された「神社明細帳」等「注書」は、幾多の伝承を紹介するうえでの基礎的資料として有効に活用した。

また神社の住所、祭神、名勝地などの情報は「長崎県の文化財・対馬」(長崎県学芸文化課)、簡略版対馬島誌と謳う郷土史的な「対馬の全カタログ」、日本全国の神社を詳細に紹介する「玄松子(ゲンショウシ)の神社参拝の記憶」などのHPから関連するデータを使用させていただいた。

 

海中に立つ和多都美神社の鳥居

海中に立つ和多都美神社の鳥居

最後に、本稿においては諸々の原文を引用するが、その中で亀甲括弧・〔 〕内の文章は筆者による注書き、注釈である。

※注1:「延喜式」
平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、延喜5年(905)に編纂を開始、22年後の延長5(927)年に完成。50巻三千数百条におよぶ条文は律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、巻一から巻十が神祇官関係となっている。そのうち巻九・十が「延喜式神名帳」と呼ばれるもので、当時の官社を網羅した謂わば格付け表である。そして祈年祭奉幣にあずかる神社2861社(天神地祇3132座)を「式内社」と称し、国郡別に整理羅列されている。

※注2:「西海道」
五畿七道という律令制時代の行政区画で、「西海道」は筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隈(以上9ヶ国が現在の九州本土)、壱岐、対馬の11の令制国(=全国68ヶ国・除く北海道)から構成される。対馬、壱岐は現在、長崎県に含まれるが、令制国時代(この呼称単位は明治初期まで残る)には対馬はひとつの行政単位たる国の位置付けにあった。ちなみに廃藩置県後に対馬国(藩)は、厳原県、伊万里県、三潴県を経て、1876年に長崎県に編入されている。

【野田 博明】