【レポート】消滅社寺に関する一試論

1.はじめに

日本創世会議の人口減少問題検討分科会(座長増田博也元総務大臣)から平成26年5月8日に発表された「ストップ少子化・地方元気戦略」のなかで、現状のままで推移すれば、将来的には消滅するおそれが高いとされる市町村、いわゆる“消滅可能市町村”の具体名が公表された。

その試算のひとつが、若者の流出は地方の人口減少の最大原因であるとして、「国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が公表している「日本の地域別将来推計人口(平成25年3月推計)」の数値をベースに人口移動率が将来的には一定程度に収束する、人口の移動が一定の水準のところで停まることを前提とした場合で2040年までの将来人口を推定すると、人口の再生産を中心的に担う「20~39歳の若年女性」が5割以上減少する市区町村が全国1800の内、373(20.7%)になるとされた。

次に、「地域間の人口移動が将来も収束しない、つまり、現在と同程度の都市部への人口流出が今後も続いてゆくと仮定して推計したのが、2040年に若年女性人口が5割以上減少する市町村が896(全体の49.8%)に達し、そのうち人口1万人未満の市町村は523(全体の29.1%)にのぼる」という衝撃的な結果であった。

これまでの事実から目を背けずに冷静に客観情勢を受入れ試算したのが、「人口の再生の95%を担う20~39歳の若年女性人口がこの30年ほどの間に5割以上減少する市町村が全体の半分におよぶ」というものであった。

わが国の人口減少に歯止めがかからないという厳しい現実を具体的市町村名を明示し、“消滅”という強迫的表現を使用することで、国民の鼻づらに人口減少や少子化の問題が即座に対応すべき待ったなしの緊急課題であることをつきつけたのである。

地方と大都市で異なる社会構造が生成されていき、その向かうベクトルの方向はますます先鋭化し、地域間の社会的、経済的、構造的な格差は収斂する兆候すら見せていない。

そんな時代背景のなかで、わが国の神社、寺院が直面している課題は平仄を合わせるように、いや、それ以上の深刻さを以て、われわれの目の前にその対策を迫ってきている。

ここでは、前掲の日本創世会議の問題提起を受けて公表された社寺の現状と課題等の諸論文も参考にしながら、わが国社寺界が直面する課題と問題点、その対応策についてひとつの試論を述べることとする。

参考とさせていただいた文献は以下の通りである。
① 「神社神道と限界集落化」(執筆者 石井研士國學院大學副学長・神道文化学部教授 「神道宗教・第237号」(平成27年1月 神道宗教学会発行))
② 「寺院消滅」(著者・鵜飼秀徳 2015.5日経BP社発行)
③ 「寺院の現状と課題点を探る 寺院を取り巻く社会の変化と寺院の向かうべき方向性」(執筆者 清水裕孝 「月刊 仏事」(2009.1号)掲載記事)
④ 「寺院と檀信徒のつながり 現状と今後」(執筆者 平子泰弘 曹洞宗総合研究センター学術大会紀要(第11回 2010.6))
⑤ 「地域再生に『精神のよりどころ』は不要なのか」(執筆者 岡田邦宏 「月間 明日への選択」) ⑥ 「“住職難”寺が消える」(朝日新聞福島支局・牧内昇平記者 2008.5.13記事)
⑦ 「過疎地域の神社調査――高知県高岡郡旧窪川町を事例に」(執筆者 冬月律 國學院大學研究開発推進センター研究紀要9号 2015.3発行)

とくにこの一試論をまとめるに際し、石井研士氏の①による「消滅可能自治体に位置する宗教法人・神社数の算出数値」は有用なデータとして活用させていただいた。また、鵜飼秀徳氏の「寺院消滅」にも大きな示唆をいただいたことをまずはここに記しておかねばならない。
2.消滅可能自治体の視点から見た社寺の現状
下の表1でわが国の社寺の全体像を概観すると、全宗教法人は176,670社となり、その内、寺院が約6割の100,640社、神社が76,030社となる。社寺に関する数字はH25年3月時点に近似する各種名簿から摘出、集計(石井氏の①)。

 

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次に表2で日本創世会議の云う“消滅可能自治体”に位置する社寺数を見ると、寺院ではその1/3にあたる31,787社が、神社においては4割を超える31,184社が将来の存立にきわめて難しい状況を抱えていることがわかる。これまで社寺の存立を支えてきた檀信徒や氏子制度において、その構成員たる人口の減少が収束しないという状況では、必然的にそれに拠ってきた社寺も消滅することは自明であるからである。

 

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これを石井氏は地域別に展開している(福島県は人口動態予測が困難として日本創世会議の分析の対象外)が、表3に見るように東北、北海道に大きく偏った形となっている。

表3、表4は46都道府県のうち限界寺院比率が高い上位10の道・県別の数字であるが、愛媛県と宮城県が寺院と神社において入れ替わるのみで、残り9つの自治体の顔ぶれは一緒である。

 

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社寺消滅の危機を地域的にみれば、限界寺院比率において12位に宮城県(49%)が位置していることを考えると、東北・北海道にその深刻さがより顕著にあらわれている。
3.消滅可能自治体に属する世帯数から見た社寺の現状
さらに、都市部への人口移動や地方の若年人口の減少などの影響から消滅可能市町村における世帯数や世帯比率に異動が生じている。そこで次に、社寺存続の危機的状況をこれまで存続を支えてきた“世帯”に着眼し、分析を試みる。
市区町村別の世帯数は日本創世会議のレポートの基準年とされた2010年(平成22年)に平仄を合わせるうえで、総務省統計の「住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数・市区町村別」(2010.3.31現在)を使用し、集計した。

表5は、都道府県別の消滅可能市町村に属する世帯の限界比率上位10位までの道県である。
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2010年3月31日現在の全国の世帯数は5261万にのぼり、高度成長期から加速化した都市部への人口流入や核家族化の流れを反映して、昭和35年以降、その数値は一貫して増加してきている。
そのなかで、2010年時点での消滅可能自治体に属する世帯数は946万世帯で、全体の18%となっている。さらに、2040年に若年女性(20~39歳)が50%以上減少し、人口が1万人以上の市区町村を限界Ⅰ、1万人未満を限界Ⅱと分類した場合にそれぞれの世帯数を集計すると、限界Ⅰが780万世帯(総世帯数の15%)、限界Ⅱが166万世帯(同3%)となった。

この限界世帯比率を表2~4で示した全国宗教法人数に対する社寺別の限界比率に照らしてみると、社寺の存続において限界自治体、就中、地方の厳しい現状がより明らかになる。

即ち、全国の18%の限界世帯で、限界法人比率36%となる62,971社の限界宗教法人を支えている形となっている。逆に言えば64%の宗教法人は総世帯の82%で支えられることで存続が可能であるとの見通しになっているということになる。

世帯にかかる寺社を支える負担をその比率の相対比であらわしてみると、存続可能地域の負担力が1.28(=82%/64%)に対し、限界地域の負担力は0.5(=18%/36%)と約2.6倍の格差が両地域の間には存在する。さらにそうした限界集落はそもそも高齢化世帯の比率が高く、その世帯収入を考慮すれば負担力の格差はさらに広まることとなり、世帯にかかる負荷率は今後、加速度的に高まってゆくと予想される。

ここで、1寺院当りの世帯数を使って少し分析を深めてみたい。表6は1寺院当りの世帯数の都道府県別の数値である。ここでは、世帯数に比し宗教法人数が一桁小さい沖縄県(総法人数202)を除く45都道府県(さらに除く福島県)を対象とした。
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宗派や地域性などにもよるが、現在の檀信徒制度をベースに一般の寺院が法事やお布施などで住職が生活していける檀家数は少なくとも300から400戸といわれている。(2008.5.13記事 朝日新聞福島総局・牧内昇平記者)
この数値を目処に全体、限界自治体、存続自治体というジャンル別に見てみる。 まず、限界自治体も含む全体での一寺院当りの世帯数を都道府県別に降順(多い数から)で見ると、神奈川、東京、埼玉、千葉、大阪というように大都市圏に位置するところが当然であるが多くの顔を見せる。

そして、損益分岐点という表現は適切ではないと思うが、一寺院当り戸数が300~400戸を切る100~200戸台の水準にある都道府県の数は14にのぼる。因みに43位が島根県の175戸、44位に滋賀県の149戸、最下位に位置するのが福井県の146戸となっている。全国平均は518戸と分岐点の戸数を上回る形となっている。

次に限界自治体にある寺院をその支える世帯数が少ない順、即ち、一世帯の負荷率が高い順に並べると、滋賀県の65戸、福井県の99戸そして4位の島根県134戸と、全体の数字と次に述べる存続寺院の数値順位と表裏の関係にあることがわかる。全国平均も分岐点の300~400戸を下回る298戸となっている。

最後に、若年女性の減少率が50%未満、即ち、消滅まではいかない自治体に位置する存続寺院に関しては、全国平均で一寺院当り世帯数は620戸と分岐点を大きく上回る水準にある。

また、滋賀県、福井県、富山県は分岐点の300戸を割った水準にあるが、これは限界寺院とまったくこの上位3県は同一であり、一世帯当りの負荷が高いことは事実ながら、逆に一世帯の負担力が他県よりも高いというふうに見ることも可能といえる。これを信仰風土といった地域性に求めるのか否かは実証分析をふくめたさらなる調査が必要と認められる。

4.厳しさを増す消滅社寺に対する考えうる対応
おおかたの神社、寺院が檀信徒や氏子制度をその運営の根幹とする現状において、日本創世会議が予測した消滅可能市町村の将来の姿はひとえに社寺を支える世帯の負担力が加速度的に減衰することをあらわしている。
自治体が消滅していく人影を失った町や村で神社や寺院だけが生き残ってゆく算段をみつけることは不可能に近い。また、仮に何か奇策があったとしても、社寺が人の心の拠りどころ、地域共同体の絆の結節点の役割を担うことが求められていくなか、そうすることの意味合いはほとんど無いのに等しい。

つまり、地方の再生が図られない限り、限界社寺の復活もないという大局的な見解を認めたうえで、敢えてそこを突破しなければ実効力のある対策は打てないということで、まずは次なる視点での検討が必要と考える。

即ち、日本国憲法はその20条において、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」としている。

また、89条において、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため・・・これを支出し、又はその利用に供してはならない」と、政教分離について厳格に規定している。

戦前の国家神道政策の悪夢からその条文はまことにもっともと言わざるを得ないが、鎮守の森や町のお祭り、お寺での座禅や法話を聞く会といったその地域の人々にとって神社や寺院が日常生活のなかで一定の心の拠りどころ、地域社会の団結といった点で存在感を示してきたことも事実である。

これは国家によって強制されたものでもなく、もっぱら一人ひとりの人間の心の問題であり、地域社会の包容力の問題であるともいえる。そうした見方に立って、限界・消滅社寺の復活に向けた限界集落にある人々による地道な活動、運動に際しては、相応の税金が使われることも考える時機が到来しているのではないかと思料する。

憲法違反であると高らかに唱えることは簡単である。しかし、地方経済が疲弊し、人々の心も荒廃していき、故郷の町や村が次々と消滅していくなかで、ひとり憲法のみが燦然と輝いているという光景も奇妙といえば奇妙である。

文化財以外の市井にあるごく普通の社寺に対する税金の投与もこれまで一切、なかったわけではない。「地域再生に『精神のよりどころ』は不要なのか」(H24.1 「月間 明日への選択」)のなかで岡田邦宏氏が述べておられるように、中越地震からの再建に際し、直接的でないが公的資金を被災した社寺を対象に投入した事例がある。

財団法人として設立された「新潟県中越大震災復興基金」を通じて、「地域コミュニティ等再建支援事業」のなかに「鎮守・神社・堂・祠」の再建支援という項目を設け、人々の心の拠りどころである社寺の復活に約30億円の助成金が交付されている。

要は柔軟な思考力と融通を利かせた制度運用など知恵を絞り、工夫を凝らすことで復活へ向けた道筋を狭いながらもつけていくことが可能と思われる。われわれ日本人の心の健やかさの復活、維持に公的資金を使うことは何らおかしなことではないと考えるべきである。

次に地域の活力をよみがえらせるのに大きな力となる祭りの復活が求められる。祭りを実行に移すには多くの人間の力が必要とされるが、そのことが必然的に地域の絆や共助という地域力を高めることにつながる。

また、その祭りの開催には行政や集落間の調整手続きや、祭日までの手順、工程管理の徹底、実行部隊の役割分担、儀式次第や伝統芸能などの習熟など協力、確認する事柄が多々ある。

さらに祭りの担い手は若い人が主体となるものの、その手筈、調整のやり方、伝統の継承といった点で、老練な人間がその頭に立ち、様々な方面に目を配り、知恵を伝達し技を承継することが必要となる。そこには世代をまたぐ伝承があり、家を越えた共同体内での共助があり、さらに団結の確認がある。

そうした祭りを通じ、共同体内での交流が深まり連帯意識が醸成されて、様々な問題解決へ向けた活力も生まれ、共同体の活性化につながっていくことが期待される。それが延いてはその地の産土神や氏神さまを祀る神社や地域の寄合場所や相談先といった寺院の復活にも寄与していく好循環のサイクルを生むものと考える。

一方で、祭りというものが一義的には共同体の精神的な一体化、団結力の発露であるものの、これを観光資源の一つとして捉えれば地域経済の底上げにもなってくる。その意味で、祭りの規模、誘客力の強化という点で周辺共同体との祭りの一体開催も実効性のある策として検討されるべきである。

例えば、信州安曇野で少なくとも三百年前から続いている“お船祭り”である。お船祭りは毎年9月に行われる穂高神社が有名であるが、安曇野に鎮座するそのほかの神社数社においても春や秋の例祭の一環として開催されている。

神事であるがゆえにその開催日程の統一には諸々、難しい問題があることは承知するが、祭りを一体化して安曇野の田園地帯の畦道を十数艘の舟形の大きな山車が練り歩く浪漫あふれる情景が実現すれば、観光客を誘致する大きな魅力的なシーンであることは間違いない。

このお船祭りは若い担い手が少なくなり、ある時期、祭りの継続が困難なところもあったと聞く。祭りが消滅してしまえば、何のことはない神事そのものがなくなってしまうことにもなる。地域の活性化、地元の人さまのためになるのであれば神さまもそこはひと肌脱いでくれるのではないかと考えるが、いかがなものであろうか。

これに関連して最後に、神社や寺院からの情報発信、地域への働きかけをどんどん積極的に進めていくことも重要なことである。地方の小さな神社をせっかく訪れても社務所が閉まり、その御朱印はおろか由緒書きすら手に入れることができない。近くの役場やコンビニ、食事処へ行けば入手できるといった貼り紙でもあれば、労を厭わず足を運ぶ社寺大好き人間も多くいることを知ってほしい。

この一点をもってしても他所からの旅人にその地の魅力を伝え、理解してもらう姿勢に欠けると言わざるを得ない。大人たち自らが自分の故郷の地誌、歴史を知り、誇りを持たねば、子供たちにこの地に留まれ、祭りを守れといくら言ってもその言葉に説得力はなく、ただ虚ろに響くだけである。ましてや、他所からの人口流入を期待することなど端から難しい話である。

消滅社寺についての具体的対応策については、さらなる考察、実証分析を踏まえて一からの掘り下げた議論をすべきであるが、筆者の非力非才によりこの試論においてはこれに留まることをお詫び申し上げ、最後としたい。

【野田 博明】
以上