【コラム】お寺さんの思惟のままに

“お寺さん”と呼べる寺院を身近にもつ幸せを最近、とみに感じるようになった。両親の命日やお盆やお彼岸の墓参、施餓鬼や星祭りといった行事に参加するたびに菩提寺の住職ご夫妻と徒然のことなど語り合う。すでにご子息に住職の座は譲られ、ご自身は長老となられているが、わが家にとっては、まだ、住職という呼び名が馴染んでおり、今でも住職と呼びかけてしまう。その住職を親しみをこめて語る時、わたしどもは“お寺さん”と呼びならわしている。

そんな“お寺さん”が最近、「うちの檀家でも無縁仏ではないが、音信不通のところが出てきて」、「葬儀をされたことも知らされず、突然に納骨だけお願いすると言ってくる檀家さんもおられる」などと困惑顔で語られることが多くなった。

そうした現象の裏には都会への人口集中、核家族化のさらなる加速、家庭内における祀りという行為の変容、信仰心の薄れといった様々な社会的要因が相互に影響し合い、負のスパイラルが形成されていることがうかがわれる。

実際に世間では葬儀の簡素化の流れが留まらず、繰り上げ法要などは当然のように常態化し、その後の年忌法要など一般的法事の省略も珍しくない。さらに、お世話になった方の身内の葬儀を事後に知らされるといったことも増えており、死者を悼む習俗そのものが潰え去っていきつつあるようでもある。

その一方で、東日本大震災の発災は日本人に自然を畏敬する真摯な気持ちや命を尊ぶあたりまえの心を取り戻させた。さらに家族の大切さや地域共同体とのつながりを見直す機会を与え、人間は互助、共助の支え合いのなかで生きていることを喚起させた。

そして、自分という一個の人間の存在が、親はもちろん祖父母、曽祖父母、そのまた先祖といった遠い、遠い時代からか細い絹糸のような一条の命がバトン渡しされてきた奇蹟の結果であることを思い知らされた。

そんな時代背景のなかでお寺は葬儀のときにお願いする所といった皮相的なものではなく、人の心の拠りどころ、社会の絆の結節点としての役目を今まさに求められようとしている。

このサイトではこれからお寺の住職さんや寺院に関連する分野の方々にご登場いただき、仏教界の現状と課題、寺院の歴史や仏像などの紹介、法話など身近に仏教を感じられるようなお話を気ままに思いのままに書き連ねていただこうと思っている。