今回は古の軍師が現代の恋のキューピッドに?シリーズを一時中断し、特別企画をお持ちしました。
12月14日は歴史好きの大群が高輪にある泉岳寺に押し掛けるになるでしょう。それはなぜなのでしょうか?
12月14日は日本人にとって、特別な意義を持つ日です。それは祝日だからではなく、ましてやカレンダーでその日に特別な記載がなされているわけでもありません。しかしながら、この日は多くの人がJR品川駅の近くにある高輪の泉岳寺に集まります。また、大勢の人が両国から泉岳寺までの12キロもの道を歩いている姿を見ることができます。
12月14日は全国的にも討ち入りの日として知られている。つまり「奇襲を起こした日」なのです。どの奇襲の事をいっているのでしょうか?
それはほかならぬ赤穂の47人の忠誠な家臣達の起こした奇襲であります。アメリカではそのグループは47人の浪人としてかなり知られている。
(2013年の映画と混同しないでください。それは関係者/場所の名前を多少使用している以外に、実際の出来事とは全く類似点がありません。)
一般的には赤穂事件としてよく知られています。事件の概略を簡単にまとめておきましょう。
・1702年12月14日から15日にかけての雪が降りしきる夜、明け方3時30分頃のことでした。47人の浪士が現在の両国にある屋敷を襲撃しました。
浪士たちは屋敷の主である吉良上野介の首を挙げたのです。彼は江戸時代の高家旗本です。
浪士達の主君であった赤穂藩主の浅野内匠頭がこの事件の2年ほど前、江戸城内で吉良上野介に襲い掛かったことで切腹を命じられました。
浪士たちはその死に対する仇討ちを行ったのです。
(注)日本は江戸時代には太陰暦を使用していましたので1702年12月14日は太陽暦でいうところの1703年1月30日にあたる日でした。
最近はそうでもありませんが、私が日本で育っていたころは、日本では毎年赤穂事件を題材とした新しい映画やドラマが公開され、日本人を魅了し続けていました。2016年10月には、東京国立劇場が50周年記念を記して、有名な歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」11幕の三か月連続完全通し上演が始まりました。演劇で11幕全てを上演することは珍しいことです。
(注)読者の中には仮名手本忠臣蔵をインターネットで検索し、その物語は赤穂事件とは異なる時代を舞台としおり、人物の名前も異なっていることに気付く人もいるかもしれません。その劇がもともと江戸時代に始まったことを忘れないでください。もし実際の日付や人物を劇に用いると、徳川幕府の役人に劇は打ち切られるのではないかと恐れ、実際の事件より400年時代設定を早め、登場人物の名前も変えました。
この日本歴史上有名な出来事をどのように紹介するべきか決めるには頭を悩ませました。物語のバリエーションは多く、その作り話から事実を見つけ出すのはとても難しいことです。会計報告のような正確な事実を書くべきでしょうか?それとも海軍軍人がしばしば言及するような「面白い海の武勇伝には事実確認必要なし」という考えにのっとり、広く知られているいくつかの物語のバリエーションをまとめて紹介することにしましょうか?史実と物語のどちらも紹介しないことに決めました。現代の読者自身に歴史を体験してもらうことに専念することにします。
あなたがその物語についてよく知らないのであれば、インターネットで調べてみてください。「忠臣蔵」のキーワードで検索することをお勧めします。忠臣蔵とは、人形劇・歌舞伎・テレビドラマ・映画などで47人の忠臣と赤穂事件について取り上げられる際のやや脚色のはいった物語のことを意味しています。(「47RONIN」は最近の映画なので、それについて調べることはおすすめしていません)ここから先のコラムは、読者が赤穂事件について、若干の知識があるという前提で進めてまいります。しかしながら、すべての物語が100%舞台や上映の為に創作されたものではないということを示すために、実際の出来事に基づいた3つのよく話題になるエピソードを紹介します。そのうち1つはおそらくではあるが・・・
エピソード①
物語では・・・
家来の赤埴源蔵は襲撃の前日に一杯の酒をもって兄のもとを訪ねます。しかし、兄は不在でした。そのため源蔵は兄の紋付き(家紋の入った正装)のありかを召使に尋ねました。そしてその衣服の前に酒の器を置き、そこに酒を注ぎいれ、涙ながらにまるで兄と今生の別れをしているかのようにふるまいました。
史実では・・・
赤埴源蔵という名の家臣がいましたが、兄の家ではなく妹の嫁いだ家を訪ねました。源蔵は酒を一滴も飲まない人物であったにも関わらず、その家の親戚にお酒を飲むことをすすめ、その日が終わるころには、今日は自分も飲みたい気分であるということを話し、お酒を飲みました。襲撃の時がせまっていたため、ほんの2,3口飲んだだけだったであろうと推測します。
エピソード②
物語では・・・
47人の家臣のリーダー格である大石内蔵助は浅野卿の未亡人である阿久里夫人の住む家を訪ねます。それは襲撃の前日のことでありました。47人のそれぞれの名前の最後に血の拇印が押されている血判状を持って行きました。そこに誓われていたことは、家臣たちは例え自らの命を犠牲にしようとも、必ず浅野卿の仇討を果たすということでした。大石がその誓いの巻物を阿久里夫人に手渡そうとした時、その家の召使が異様な関心を示していることに気が付きました。ほぼ間違いなくそれは上杉卿のスパイだったのです。上杉卿の生みの親が吉良卿で、彼は上杉家に養子に入っていました。大石はとっさに別の殿さまに仕えることになったという嘘をでっち上げた。更に浅野卿に最後の挨拶のため、俳句集を仏前に供えたいと願い出ました。しかし、阿久里夫人は憤慨し、大石が浅野卿にお参りすることを許さず、部屋を出て行ってしまいます。大石は阿久里夫人の侍女にせめて俳句をおさめた巻物だけでも受け取って、仏前に供えてもらうように嘆願しました。実をいうとその巻物こそが血判状だったのです。彼女は彼に同情し、その巻物を仏前に供えることにしました。大石と家来は邸宅から出るとすぐに振り返り、雪の積もる中、手と膝を地につけ、頭を深々と下げ、浅野卿への敬意を表しました。その夜の遅くに、侍女はスパイが巻物を盗もうと企てているところを見つけました。スパイは取り押さえられましたが、舌を噛み切って命を絶ってしまいました。侍女がその巻物を間近で見たところ、それが俳句集ではなく誓いの血判状であることに気が付き、阿久里夫人に伝えました。阿久里夫人は癇癪を起したことを悔やみ、浅野卿の仏前で、襲撃の成功を祈りながら、一夜を過ごしました。
史実・・・
大石の阿久里夫人への最後の訪問は、襲撃の一年前のことでありました。しかし、襲撃の一日前に、襲撃の用意の為にかかった費用を記録した会計帳簿を阿久里夫人に送っています。推測するに、その費用に阿久里夫人の結婚持参金の一部も含まれていたため、報告をする必要があると感じたのであろうと思います。
エピソード③
おそらく真実・・・
このエピソードはドラマや映画ではあまり語られることのないものです。舞台は箱根、家臣の一人である神崎与五郎は、襲撃に加わるために、大急ぎで江戸(現在の東京)に向かっていました。箱根の関所を越えるときに、馬詐欺を企てているヤクザ者に話しかけられました。そのヤクザ者は彼の与えた馬に通行人を無理やり乗せて、乗馬代として法外な料金を請求していました。与五郎はこれを拒みました、すると与五郎は恐れているのだと考えたヤクザ者は彼を情け容赦なくなじりました。与五郎にしてみれば、剣を振りおろし、ヤクザ者の首をはねてしまうことは極めて簡単なことでありましたが、江戸への到着が遅れるようなことは関わりたくありませんでした。ヤクザ者は与五郎が詫び状を書いて、土下座をすれば通ることを許すと言いました。与五郎は、それを受け入れました。2人は近くの茶屋へ赴き、そこで詫び状を書き、土下座をし、江戸に向けて出発をしました。その後、そのヤクザ者は赤穂事件について知ることとなり、自分が役立たずの弱虫と罵った侍が47人の浪士の一人であったと知りました。そのヤクザ者はおおいに恥じて、ヤクザから足を洗い、髪を剃って僧侶となりました。(おそらく自身があやうく無残な死に方とげるところであったということに気がついたと思います。)
この茶屋は今でも営業しています!旧東海道の小田原から箱根への道中にあり、その茶屋の裏手には、かつて東海道であった石畳の小道があります。茶屋のWEBサイトによると、毎年12月14日の朝の7時から10時には、記念行事として甘酒が無料で振る舞われているそうです。
さあ、江戸の話に戻り、赤穂事件をご自身で体験してみましょう!最も簡単で私がオススメする方法は、泉岳寺を訪れ、47人の浪士達の墓に線香をあげることです。そして、泉岳寺の敷地内にある小さな博物館を訪ね、47人の浪士に奉納をすることです。いつ訪れてもそれは可能ですが、12月14日か15日のどちらかに訪れることは重要な意味があります。
私のような熱狂的なファンにとっては、亡き主人の仇討に成功した後に勝利の帰路についた道のりを追体験するのがいいでしょう。お察しの通りかと思いますが、吉良邸から泉岳寺までの12.2キロメートルを歩くということです。もっと言えば、襲撃の日にそれを試みるということです。ほとんどの人は12月14日に行いますが、熱狂的な歴史ファンは12月15日に行います。
襲撃は12月14日から15日にかけての真夜中3時30分に決行されました。吉良卿の護衛を倒すのに30分の時間を要しました、そして吉良卿の隠れ場所を探し当てるのに1時間の時間がかかりました。打ちとった吉良の首は布でしっかりと包み、槍の先端から吊り下げました。
赤穂浪士達は、両国橋のほとりに最初の防衛拠点を築きました。彼らは上杉の兵士が間違いなく、追撃してくるであろうと考えていました。しばらくの後、上杉兵の襲撃はないということが明らかになり、泉岳寺に向けて出発しました。亡き主人の墓前に吉良の首をかかげ、主人の死に報いたことを報告するためです。両国橋を渡るには、一行は身分の高い侍の住居の近辺を通過しなければなりませんでした。なので、代わりに南に向かい、永代橋を渡ることにしました。永代橋のそばには、味噌を売るちくま屋があり、家臣たちにあたたかい甘酒を振る舞いました。ちくま屋のWEBサイトによると、この御店の初代オーナーである作兵衛が、赤穂家臣の一人である大高源五と同じ俳句の会に属していたからだといいます。
あなたもこの甘酒を味わうことができます!昔から今日にいたるまで、毎年12月14日には、大勢の人が両国からの泉岳寺までの家臣の足跡を追いかけています。ちくま味噌店は今では新しい場所に移っていますが、店の従業員が元々の場所で熱狂的なファンのために甘酒を振舞っています。ありがたいことに、ちくま屋は筆者のように14日ではなく家臣が歩いた正確な日である15日に歩く人のためにも、甘酒を振舞っています。(襲撃が行われたのは、12月14日の夜、吉良によって催さてれた茶会のあとであるということを覚えていてください。14日の日中に歩いている人は、正確には襲撃が決行された時より前ということになります。)
私は、3年前に歩きました。もちろん12月15日の朝に決行しました。その時撮影した道中の重要な場所の写真を数枚お見せします。
両国記念公園の入り口/吉良卿を祀る祠。ここは吉良邸の跡地で、赤穂浪士達が吉良の首を洗った井戸があります。
赤穂藩邸があった場所にある聖路加病院の敷地内のどこかにあるという記念碑は見つけることができませんでした。ここでは、赤穂浪士達が少しの間立ち止まり、祈りを捧げたといいます。私はそこを訪れた証拠としてこの写真を撮りました。当日は寒く、雨も降っていて、何よりも、その時は急いでトイレを探していましたので、許してください。
敬意を失するので、お墓の写真は全く撮っていません。なので、47人が埋葬されている墓地の写真をお見せすることはできません。代わりに、12月15日に関わるおもしろい一幕をお見せします。
見るからにウォーキングして来たという30人ぐらいの集団に気が付きました。そして、彼らは泉岳寺の門の前で集合写真をとるために集まっていました。誰も三脚を持っていなかったので、彼らは数人で代わる代わる写真をとろうとしていました。私は彼らのカメラマンを買って出ました。通常こういう場面では、写真をとるタイミングを知らせるために、「ハイ、チーズ!」と声をかけますが、この時は代わりに「ヤマ!」といいました。みんな満面の笑みになり、「カワ!」と掛け声をかえしました。そして写真を撮りました。お分かりでしょうか?ヤマ(山)とカワ(川)は、今でも有名な合言葉で、赤穂浪士が吉良邸から闇へバラバラに分かれたあとにお互いを判別するために用いました。
泉岳寺の中には、赤穂浪士のための墓地があります。その入口には、小さな小屋があってそこには線香の束を買うことができます。スタッフが線香に火をつけてくれます。私が線香を買うための列にならんでいると、列の私のすぐ前に若い女性がいることに気が付きました。その日は寒く霧雨が降っていたにもかかわらず、その女性はショートパンツに薄いストッキングという出立ちでした。もしかして、勝負服なのでしょうか?ほとんどの人は大石内蔵助の墓からはじめて、47人のお墓をめぐり、線香を一本ずつそれぞれのお墓に上げていきます。その特徴的な女性は線香を1本大石内蔵助にあげ、また1本をその息子である主税に上げました。その後、 堀部安兵衛の墓に大急ぎで向かいました。堀部安兵衛は47人の中での随一の剣の達人で、その実力で知られています。そして、その女性は安兵衛のお墓の前にしゃがみ込み、線香を束であげ、深々と頭を下げお参りをしました。安兵衛はすごく喜んでいるだろうと思います。
それでは、泉岳寺について簡潔に説明しましょう。泉岳寺の特徴は、徳川家康将軍が建立した唯一のお寺であるということです。徳川家康が寄進したお寺、または家康の魂や遺骨が納められているお寺はたくさん存在していますが、泉岳寺は徳川家康が自ら建立した唯一のお寺です。
さて、なぜ五代将軍徳川綱吉の逆鱗に触れた浅野卿が徳川家にとって重要なお寺に埋葬されているのか、疑問ではないでしょうか?赤穂事件の前に、泉岳寺は火事によって焼けてしまい、赤穂藩士がその再建に従事したからです。そのため泉岳寺が浅野家の菩提寺となり、浅野内匠頭が泉岳寺に埋葬されることとなったのです。
47人の浪士たちは、浅野内匠頭のお墓に面する別の囲いの中に埋葬されています。大石内蔵助の墓石は簡単に見つけることができます。たった一人だけ木で作られている祠に入っているからです。他の浪士のお墓は雨ざらしだからです。それぞれの墓石には法名が刻まれています。興味深いことに、それぞれの法名の1番目の4番目の漢字が共通しています。その意味するところは、「刀の刃の上を歩く」ということです。それは赤穂浪士が不可能なことを成し遂げたことを示しています。赤穂浪士は座わった状態で、膝の上に首を抱える姿で埋葬されています。
私は軍人出身であるということもあり、アメリカの軍人の仲間へのおみやげとして、泉岳寺で配布されている勝守りを好んで選んでいます。このお守りは、大石家の家紋が特徴的で、成功を呼び寄せると言われています。
泉岳寺から離れ、坂道を50メートルほど下ると、混雑した車線の多い大通りが目に入ってきます。この通りは第一京浜または国道15号線と呼ばれています。しかし、江戸時代に遡ると、この道は京都から江戸を結ぶ東海道と呼ばれていました。江戸の町へ入るには、大きな木製の扉である大木戸のどれか1つを通過する必要がありました。これらの扉は夜の間は閉鎖されています。東海道からの通行を警備する大木戸はもともと、1616年に建設され、現在のJR田町駅の近くである札の辻にあり、芝口門と呼ばれていました。赤穂事件の8年後の1710年、その門はおよそ700メートル南に移され、泉岳寺のすぐ近くになり、名を高輪大木戸と改めました。西日本から江戸を訪れるものは、高輪大木戸の通行の許可を得るために、少し時間がかかっていました。そこで、47人の赤穂浪士が眠る泉岳寺を訪れない手はないでしょう。この考えはうまくいき、お寺はたくさんの人で賑わいました。
徳川幕府が人々に泉岳寺を訪れてもらいたかった理由は2つあります。まず、もちろんのことですが、財政的ことがあげられます。おそらくはお守りを買うような形で、訪問者たちは必然的に何らかのお金をお寺に納めることになります。そうすることで、お寺の財政基盤は安定します。しかし、より重要なことは徳川幕府が「ゆるぎない忠誠心」の確率を推し進めることでした。この当時、大変革が進んでいたことを心に止めてください。将軍綱吉は政策を武士主体のものから市民主体ものへの転換を進めていました。また将軍綱吉は昇進の基準を、人を殺すというような戦場での能力から忠勤にシフトさせたいという考えを持っていました。彼はしばしば「生類あわれみの令」を引き合いに出して、動物を殺すことは禁じ、投獄したり追放したりしていたと批判されることがあります。しかし、将軍綱吉はこの法律によって、命の尊さが強調されることを望んでいました。それまでは、人間の命もまた価値をおかれていませんでした。侍は試合や試し切りと称して、罪のない通行人を殺したりすることも慣例でした。人を殺すことが、昇進に関わっているままであれば、徳川幕府に対するクーデターが起こるのも、時間の問題でありました。そのため、将軍綱吉(1709年に死去)とその後継者である将軍家宣は、揺るぎない忠誠心、特に自らの君主に対する忠誠心を重視しました。このため、47人の赤穂浪士を、正真正銘の忠誠、そして侍の高き理想の見本としました。大木戸を移動させたことで、日本中からの旅人が浪士の墓を訪問し、赤穂浪士の物語と揺るぎない忠誠心という考えを自らの故郷に帰って広めました。君主への忠誠心は同様に将軍自身への忠誠にもほかありません。
47人の赤穂浪士の物語が、300年以上経過した今でも多くの日本人の心や魂を揺さぶっていることを思うと、将軍綱吉や将軍家宣の考えは、彼らの想像を遥かに超えた成功をおさめたと言えるでしょう。
筆者は元アメリカ海軍少佐で、海軍認定のテロ対策教官も務めてました。
現在は日本の企業や市民団体にテロ対策を教えるコンサルタントとして活躍しています。
彼のホームページはこちら:http://www.rhumbline.co.jp/