【コラム】大石神社・兵庫県赤穂市

ウィリアム J. ヤング筆者 ウィリアム・J・ヤング

鎌倉生まれ、鎌倉育ちの元アメリカ海軍少佐で、海軍認定のテロ対策教官も務めてました。現在は日本の企業や市民団体にテロ対策を教えるコンサルタントとして活躍しています。詳しくはこちら:http://www.rhumbline.co.jp/

日本の歴史・文化に造詣が深く、アメリカ人ならではの視点から、日本人には新鮮な観点で海外の方には分かりやすく日本の社寺の魅力を紹介しています。
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平成29年12月14日

竹中さんの運転する車が赤穂へと続く峠道を登り始めると、川飛照美さんが呟きました。「この時期にテレビで盛んに流れる赤穂事件のドラマや映画をいつも泣きながら見ている」と。彼女の世代の日本人であれば、誰もが胸に迫る思いを抱くものでしょうけれども、照美さんの場合は、「自分の先祖がどれだけ家臣に負担をかけてしまったのか」を思い、「大変だったでしょうね。お世話になりました。」と涙するそうです。皆さんもうお分かりですね。照美さんは一般的に「忠臣蔵」と呼ばれている「赤穂事件」の播磨赤穂藩藩主、浅野内匠頭のご子孫のお一人です。

2017年12月14日、私の親友である竹中洋介さん(戦国軍師竹中半兵衛公の子孫)よりお声がけいただき、兵庫県赤穂市の大石神社で行われる藩主淺野家及び赤穂義士の追慕大祭に、義士のご子孫、関係者の皆さまと共に、私も参列させていただける事となりました。私の同行を快く受けて下さったのが照美さんです。

祭典の前日、新幹線で竹中さんと照美さんが住む姫路に向かいました。昼過ぎに到着した私は、ホテルに荷物を置くと早々に現存天守を誇る国宝・重要文化財である姫路城へと足を運びました。もう何年間も姫路城へ行きたいと強く思っていた私にとって、今回はその初めての機会でした。いくつもの門を抜け大天守の入口まで辿り着きましたが、あいにくその日は少し膝を痛めていたため、天守には入らずそこまでで引き返しました。今まで様々なお城を巡ってきた経験から、現存天守内の階段は大変急な造りになっており、階段というよりも梯子と呼ぶ方が相応しいくらいであると知っていたからです。後ろ髪を引かれる思いでしたが、ここで無理をして、もしも翌日の大事なイベントをドタキャンするはめにでもなったら、それこそ取り返しがつきません。その日の夜に、徳川御三家の水戸徳川家15代ご当主様が講演される勉強会があり、私も竹中さんとご一緒させていただき、照美さんもそこでご紹介いただきました。

いよいよ今回のメインイベント、祭祀が行われる赤穂義士祭り当日。朝9時に照美さんと竹中さんと共に、竹中さんの車で姫路を出発し赤穂へ向かいました。1時間ほどで、赤穂へと繋がる峠道へ差し掛かり、そこからの車内の会話は自然と「赤穂事件」に関するものへと変わっていきました。元禄14年春、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭が切腹に処せられ、赤穂藩はお取潰し、赤穂藩の家臣が浪人と成り果てました。そのうちの半分はすぐにほかの国へと去りましたが、赤穂に残った元国家老の大石内蔵助公は、内匠頭の弟、浅野大学を当主として赤穂浅野家の再建に尽力しました。しかしそれも結局徳川幕府に却下され、その判断が下された時、大石公は仇討ちを決断したと言われています。藩に残っていた元赤穂藩の侍達は、皆仇討ちに参加する事を誓いました。実際に吉良邸に乗り込み討ち入りを果たしたのは47人。一般的な説では、浪人としての貧乏生活と、いつまで待っても仇討の機会が訪れないストレスに耐えられなかった者、そして怖気づいてしまった者が討ち入り計画から離れていったとされています。そして、それらの方々は生涯逃げ出した者と軽蔑されてきました。

しかし照美さんによると、最終的に討ち入りが47人で行われた理由は別にあるそうです。大石内蔵助は綿密な計画を立てる人物として広く知られていす。たった一度だけの討ち入りのチャンスに、主君の仇討ちの全てを賭けるような人物ではありません。参加を誓った浪人は、3組に分けられ、仮に最初の討ち入りが失敗に終わった場合に備えて、第二、第三の計画も用意されていました。そして最初の討ち入りの成功率を上げるため、この第一組目に精鋭達を集めたそうです。もしも初めの討ち入りに失敗すれば、奇襲攻撃という赤穂浪士達にとっての最大の好機を失い、吉良邸はまた来るかもしれない討ち入りに用心し、堅い守りに閉ざされてしまうことでしょう。照美さんはその「討ち入りに参加せず行方不明となった残りの方々」の多くが集結して暮らしていた集落の名前も教えてくれましたが、思い出せません。

さて、そうこうしている内に車は赤穂市に到着し、私達は徒歩で赤穂大石神社へ向かいました。大石神社は大石内蔵助の屋敷跡内に建てられた神社で、47義士が祀られています。赤穂事件後、市民が密かにこの大石邸内に小さな祠を建て、幕府の目から隠れ祀っていたそうです。明治維新後に47義士を祀る神社を建てる許可がおり、大正元年に現在の大石神社が完成しました。今でも神社では側壁として大石邸の長屋門をそのまま使用しています。

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この日は、毎年討ち入りの日である12月14日に赤穂で行われている、47義士を偲ぶ「赤穂義士祭」が盛大に開催されており、忠臣蔵パレードなども行われ、赤穂市と大石神社は多くの見物客で賑わっていました。

大石神社を訪れると、まず目に飛び込んでくるのは、参道の両脇にずらりと並ぶ47義士の石像でしょう。47人すべての義士が様々な姿で佇み参道を通る者を出迎えます。私達は少し遅れていたので足早に通り過ぎ、境内へ入り宮司の飯尾さんに自己紹介しました。控室でほんの少し時間を過ごした後、神職さんにご案内いただき拝殿へ入りました。中には長椅子が用意されていて、中央には義士の子孫の方々が座りました。両脇に並べられていた長椅子には今回の祭で47義士を演じる方々が座り、私の少し前の席に大石内蔵助役を演じる歌舞伎役者の中村梅雀さんが座りました。この時はまだ祭祀が始まる前でしたので、写真を一枚撮ることができました。この記事のアイキャッチ写真がその一枚です。

その後、宮司の飯尾さん、神職さん達が本殿に入り祭典が始まりました。厳粛な儀式に敬意を表し、式中の写真は一切撮っておりません。式は粛々と進行し、何度も椅子から立ち上がりお辞儀をした事は覚えています。

祭典が終わり、私達が立ち上がったところで若いカップルが私達の元へ近づいて来ました。ご紹介いただいたそのお二人は、照美さんのお孫さんである佑香さんと、彼女のお友達の田中祥元さんでした。

私達は神社よりご用意いただいたお昼のお弁当をいただくため、皆で控室へと戻りました。佑香さんは瑞々しく美しい方で、祭祀に参加され居合わせた方が、彼女のために、その場で伝統的な日本の歌を披露してくれたほどです。歌の途中で涙ぐむ照美さんを見て、照美さんがいかにお孫さんを愛し、愛されているのかが分かりました。

昼食会を終えて、照美さんと佑香さんにこの記事のためにお二人の写真を撮らせてくれないかと尋ねてみると、お二人とも快く応じてくれました。浅野家の子孫であるお二人の写真を撮るのに一番適した場所は、播磨赤穂藩の筆頭家老であり、47士の総指揮官であった大石内蔵助の石像の前以外にありません。こちらはその写真です。一緒に写る若い男性は祥元さんです。

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その後一行は赤穂市立歴史博物館へと向かいました。私も途中まで同行し、前述の現在まで残る大石邸の長屋門の写真を撮りました。

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表札には微かに「大」の漢字が見てとれます。

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この記事に使用する写真をもう少し撮るために、照美さんにお断りし私は皆と離れ神社へ戻りました。大石神社に訪れたのは今回が初めてだという佑香さんと祥元さんも一緒に戻る事になりました。

私達は最初に鳥居まで行き、そこから神社境内へと向かいました。

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参道の47義士はそれぞれ多様な武器を手にしています。私は個人的に「弁慶の七つ道具」の一つである大槌が一番好きなので、大槌を持っている義士が目に留まりました。

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そしてもちろん、大石内蔵助に次いで有名な堀部安兵衛の写真も撮りました。

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大石神社がお祭りモードであり、観光客で賑わう様子が写真からも見ていただけると思います。

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ここ大石神社は、ご祭神大石内蔵助をはじめ47義士が1年10ヶ月の間苦労を重ね主君の仇を討った事により、「大願成就」「心願成就」の神として有名ですが、授与所ではその他にも種々な御守りが並べられていました。私は出産を間近に控えた妻への安産祈願の御守りをいただきしました。

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さて、神社で佑香さんと祥元さんは二種類のおみくじを引きました。最初は通常の折り畳まれた紙のもの。次に二人が引いたおみくじは、私が今までに見たことのないタイプで、紙に各カテゴリーが記されているものの、肝心のおみくじの内容部分は白紙です。二人は用意されていた蹲に向かいました。何が起きるのかと見ていると、その白紙のおみくじを水にさらすと「透明インク」で描かれていたおみくじの内容が浮かび上がってきました。ワオ!

拝殿の側のテーブルの上には、インスタグラム用のフレームが用意されていました。私達もそれを使用し、佑香さんと祥元さんのツーショットを撮ったのですが、二人に「ヤングさんも撮りましょう」と誘われました。しかし、この神社に祀られている主君に忠実な侍達に、「我らの殿様の大切な末裔に近寄る怪しい異国人!」と思われてしまっては大変です。初めは遠慮しましたが、二人の押しに負け私も一枚撮らせていただきました。誤解を与えないように、佑香さんと私の間にははっきりと見える空間を空けてあります。

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最後に本殿で大石神社の主祭神に挨拶し、皆と合流するため歴史博物館へと向かいました。館内は撮影禁止でしたので、こちらでの写真はありません。

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ここで少し話を47義士に戻す事にしましょう。通常では、赤穂事件のような事件が起きると、直接関わった人物と共に、その家族3世代が刑罰されます。つまり、普通ならば各義士の妻、子と孫までが処刑されていました。しかし、47義士は市民達の間で非常に評判が高かったので、当時他の重大な問題を抱えていた幕府側としては、47義士をただの犯罪者扱いする事で民衆の怒りを買いたくなかったのです。本来なら処刑される範囲であった女性は全て一切の刑を免れました。15歳以上の男子(4人)は遠島となり、15歳未満の男子は15歳になった時点で遠島という比較的軽い刑罰が下されました。しかしそれも、将軍の母が他界すると15歳未満の男子の刑罰は免除され、将軍本人が他界した際には、遠島されていた男子3人(1人は遠島中に他界)も戻されました。47義士の血筋は極めて高く評価され、一種のブランドになり、義士の子達は養子・家臣として国中の藩に迎え入れられました。浅野内匠頭の弟浅野大学も、500石の旗本として復帰しました。

浅野内匠頭の肉親は、隣の龍野藩の藩主である脇坂家に迎えられました。赤穂城明け渡しの際に行われた精算が矢を一本たりとも逃さなかった見事なもので、それに感動した脇坂家のお殿様が浅野一家を受け入る事を決心したそうです。

赤穂での全ての予定を終えた私達は、午後5時くらいに姫路への帰路につきました。車中で洋介さんと、姫路に着いたらお好み焼きを食べようかなどと話していると、照美さんも焼きそばが食べたいという事で、私達を行きつけのお店へ招待して下さいました。お好み焼きと焼きそばを食べながら、照美さんと洋介さんは「現代の武家の子としての教育」に関して色々とお話してくれました。特に印象的だった3つのエピソードを皆さまにもご紹介します。

お二人とも物心ついた時から死生観を学んだそうです。特に、死とはなにか、そしてどの様に迎え入れるべきなのかという事を詳しく教わったそうです。ワォ!私が幼少期にそのような事を教わるなんて、全く考えられません。恐らく一種のトラウマになった事でしょう。

洋介さんは、お父さんが毎晩帰宅する時の決まりに関してお話してくれました。車の音が聞こえると家族一同が応接間に集まり、兄弟は年齢順に並び正座し、お父さんが部屋に入り腰掛けると、年齢順にその日の出来事を報告するのだそうです。

照美さんは小学生の時から茶道を習ったそうです。理由は、「重大な事は全て茶室で相談されるから」。彼女が「でも家には茶室はないのに」と反論しても、一切聞き入れてもらえなかったそうです。これには大笑いしてしまいました。

さて、ではこれで私が浅野内匠頭のご子孫の方々と過ごした、楽しく有意義な一日のお話の幕切れとさせていただきます。