III.金田城は実は椎根にあった!— 大吉戸神社と金田城の謎
対馬巡礼の旅の冒頭で、何故にこのような話題を取り上げるのかということをまず説明する。これから様々な形で対馬の神々について述べていくが、その際に資料として引用とする前述の「対州神社誌」など諸文献に神功皇后に関係する多くの伝承が記載されている。そしてその譚がこれから紹介していく神社の由来や縁起に深くかかわっている事例を数多くとりあげる。
これは伝承だから、どの地方にでもある単なる作り話に過ぎないから、その歴史的資料価値は高くないと安易に決めつけることは、口承というひとつの文化形態を蔑ろにするもので、学問的ではないと考える。
とくにそれが伝承であるが故に、逆に由来自体の信憑性をいたずらに貶め、一顧だにせずに放棄することなどは、文献や文字文化のない時代を対象とする限り、決して賢明な考証のあり方ではない。
そこで、伝承が実は歴史的事実を伝えている蓋然性が高いこともあるのだという事例をまずは紹介することにする。掲題のテーマはやや興味本位の内容に傾き過ぎかも知れぬが、本論に入る前にこれを読んでいただくことで、なるほど伝承と一言で退けるのも考えものだと見直していただければと思い、この話題を対馬巡礼の旅の導入部としたい。
さて、日本書紀・天智6(西暦667)年11月の条に、「この月、倭国の高安城(たかやすのき)、讃岐国の山田郡の屋島城、対馬国の金田城(かねたのき)を築く」とある。
この背景としては、斉明天皇6年(660)に滅亡した百済の再興を期して、天智2(663)年に百済遺民と倭国の連合軍が白村江で唐・新羅連合軍に挑むも大敗を喫したことがあげられる。その後、第3代皇帝高宗の下、強大化していった唐とその冊封(サクホウ)国である新羅の軍事攻勢の高まりが大和王朝に国土防衛の早急なる体制強化を迫った。
そこで、紀・天智天皇3(664)年の条にある、筑紫に「大堤を築き水を貯へ、名けて水城と曰ふ」と、まずは大宰府を防禦するため水城を築かせた。翌665年にはその東側に接するように大野城(オオノノキ)を、また、大宰府の後背を守るために基肄城(キイノキ)を築城する。
さらに、瀬戸内への進入路の防禦拠点として長門城を築かせた。これらの城塞は山腹を直方体の切石を鉢巻状に囲繞するように列べ、その上に重厚な版築土塁を盛り上げた朝鮮式山城と呼ばれるものである。
そして、天智天皇6(667)年11月条に、前述の「対馬国の金田城を築」き、さらなる防衛拠点の充実を図ったわけである。加えて、同年には都を飛鳥から内陸部の近江大津宮へ遷すなど外的脅威に対する大和王朝の警戒感と恐怖心は相当なものであったことが窺い知れる。
このように国家存亡の危機に直面して相次ぎ打った国防上の重要施策のなかに対馬国の金田城築城が位置づけられる。いま、金田城は対馬中央部を西から東に向けてえぐるように入り込んだ浅茅湾の中ほど南端の城山の山麓から頂上にかけてその遺構の発掘整備が続いている。
ところが、その金田城、考えれば考えるほど奇妙な地点に位置しているのである。浅茅湾はいわゆるリアス式海岸に囲まれた湾である。そのため陸地を切り裂くように湾入する箇所が数多ある。大きく西側に口を開けた浅茅湾の南に細く鋭角的に分け入っているのが黒瀬湾という小さな湾であるが、その細長い入り江の西側海岸線近くに北から南へ一の城戸、二の城戸、三の城戸を設け、山頂からは敵を見下ろすように造営されているのが金田城なのである。
つまり、筑紫へあるいは大和への侵攻を阻止するという第一の目的およびその外征途上の対馬上陸を防ぎたいという狙いで築かれた城塞であれば、その立地はあまりにも不自然であり、その目的に対しほとんど実効性を有せぬ無用の長物であると断言してよい防衛施設となっている。
そもそも外敵が今日でも“細り口”と呼ばれている狭隘な湾口をくぐり、退路を塞がれたら袋の鼠になることが自明の、しかも両岸から容易に矢を射かけられるほどの狭い袋小路に自ら死地を求めて進んでくるような愚行をするはずがない。
さらに、対馬攻略を果たしたうえで筑紫、大和へ侵攻する場合でも、対馬に上陸するには、大船団を停泊させやすく上陸しやすい海岸線の広い地点を選択するはずである。
その意味で、当時の唐や新羅が倭国に攻め入ってくるという脅威に対抗し築城するのであれば、攻めるに易く防禦も堅いといった攻守両面に機動的に対処できる要所に築城するのが軍事の常道というべきであろう。然るに、現在云う金田城の位置は専守防衛あるいは半島を攻撃する前線基地としての機能は果たせるが、周囲に押し寄せる外敵に対し機動的攻撃を仕掛けるには適していないというしかない。大和王朝の拠点である畿内防衛という軍事目的からは大きく外れたものであると言わざるを得ないのである。
果たして紀に記された金田城と呼ばれる城塞はこの黒瀬湾に臨んでいるこの山城なのだろうかと疑念が湧き出でたところで、次なる文献の一文に遭遇した。
「神功皇后新羅を征伐し御帰陣の時、対馬島黒瀬城を築かしめ、防人を置かせ玉ひ、天神地祇を城山に祭らしむ。依りて大吉刀神社と称す」
「神社明細帳」が「大吉戸(オオキド)神社」(祭神 応神天皇・神功皇后・豊姫(大帳・明細帳))の由緒について記述した箇所である。
吉戸(キド)は城戸(キド)を表わし、敵から守りきる縁起の良い城門の意味とも解し得る。また、現在の社名、「大吉戸」が明細帳では「大吉刀」とされており、「吉刀」という戦を象徴する刀の吉祥を願った社名が国防の城塞の堅守を祈念することに通じることからこちらが当初の呼称であった可能性が高い。
その同じ「神社明細帳」が厳原町椎根(旧佐須村字鹿ノ采(コザトヘン))に鎮座する「天神社」の境内社である「吉刀(キド)神社(若宮八幡)」(祭神 応神天皇)について、「天智天皇の御代金田城を築き祭りて鎮守となせり。貞観十二年三月従五位上を授けらる」と、その由緒を述べている。
これは一体、どうしたことか。現在の金田城と呼ばれる城塞は、標高273m城山の中腹に石塁を巡らせている。その麓、海面ちかくに城門となる一から三の城戸を構えているが、その一の城戸から徒歩5分ほどの城山が海に落ち込む北東端に鎮座しているのが大吉戸神社である。
新羅凱旋を果たした神功皇后が黒瀬城を築き、防人を配置したその城山に天神地祇を祭らせたのが大吉戸神社であるとの記述に併せ、城山から南西に10kmも離れた対馬西岸の椎根にある「吉刀神社」が金田城の城塞を鎮守しているという記述。一体、この両方の記述をどう考えたらよいのか、疑念が湧いてきた瞬間であった。
現在、諸書において金田城の別名を黒瀬城としている。そして、城山の頂上の石垣や中腹にある石塁、城門などは、「金田城」として国の特別史跡に指定されている。城山にあるのは金田城とされているのだから、大吉戸神社の由緒だけを見る限りは、金田城=黒瀬城と考えるしか仕様がない。
しかし、明細帳における椎根の「吉刀神社」の記述を支点に見れば、金田城と黒瀬城はまずは別物と考えてみる必要がある。旁、「吉刀神社」がその境内にあったとする「天神社」の場所は、厳原町椎根、旧佐須村(現在の対馬市役所佐須出張所の辺り)にあったものである。
そして、そこは、黒瀬にある金田城からは西南方向に10kmも離れた遠方の地であり、かつ東シナ海という外洋に直接面した場所である。但し「吉刀神社」自体は、「大帳」の作成時点(1781-1789)において、すでに「今社領これ無く、古帳に云う、右三社は昔、神事として造営、上よりこれ有り。郡代これ無く、その時に社領は絶える也」とあり、現在にその痕跡を止めぬところとなっている。
そこで、現在の厳原町椎根136番地にある「天神神社(祭神:彦火々出見命=山幸彦)」を「天神社」と比定して考察を進めることにする。そもそも、対象物を護るために造営される鎮守の社は、その対象物の近くに存在するか、その対象物に所縁のある地に存在するのが自然である。つまり、椎根の天神神社近くに金田城があったと考えるのが至極自然なのである。
椎根周辺の地図を子細に眺めて見た。すると、海岸淵にある天神神社から佐須川を1.5kmほど遡った南側に金田山(216m)という名の山があり、その一帯を金田と称している。その至近の山頂にこそ、天智天皇が造営させた金田城があったと考えるべきではなかろうかというのが、わたしの推論なのである。
史実として、蒙古と高麗軍が対馬下島・佐須浦に襲来した元寇の文永の役(1274年)の時、対馬国の守護代であった宗助国(戦死)が激戦を展開した小茂田浜は佐須川の河口に隣接する北浜である。船450艘、3万人もの大軍が押し寄せることのできた佐須浦一帯の海浜が軍事上の要衝の地であったことは歴史が証明している。
しかも、当時、小茂田浜は現在の海岸線より500mほど内陸に入り込んでおり、蒙古軍との激戦の地は今の金田小学校のあたりであったと説明されている(小茂田神社案内による)。その金田小学校は、金田山の真北、佐須川を挟んで500mの所にある。まさに小茂田浜を真下に見降ろす所、川を環濠とするようにして、金田山があったことになる。
大吉戸神社のちょうど上方に金田城とされる城の一ノ城戸が位置する。しかし、この辺りは古来、湾名にあるように「黒瀬」と呼称されて来ている。「大小神社帳」(1760年編纂)では、「大吉戸神社」を金田城八幡宮ではなく、「黒瀬城八幡宮」と呼んでいる。
そして、この黒瀬近辺に「金田」という地名の痕跡を探し出すことは出来ないのである。逆に黒瀬湾奥に皇后岬という岬があるが、そこに黒瀬城を造営させた神功皇后の遺骨を葬ったとの伝承が残されているほどである。
こう考えて来ると、国の特別史跡たる金田城は、「紀」の天智紀に記述された「金田城」ではなく、対馬の伝承に残る三韓征伐の凱旋時に国防の拠点、半島進出の前線基地として築城された「黒瀬城」と考える方が、諸々の傍証からして妥当な結論だと云える。
そう問題を整理して見ると、「大吉戸(オオキド)神社」は、明細帳にある通りに、神功皇后が黒瀬城を築かせ、その「天神地祇(アマツカミクニツカミ)を城山に祭ら」しめるために、造営された社だと見た方がよい。
そして、今はない「吉刀(キド)神社」が、黒瀬城の後に大和朝廷が椎根の金田山に築かせた金田城を鎮護する社であったと考えるべきである。社名に「大」が欠けているのも、新羅に戦捷した後に造られた大吉戸神社と新羅に敗戦した後に造られた神社の格の違いのようなものを感じるのは考え過ぎだろうか。
さらに、現在の金田城とされている城山の古い石塁の築造が、放射性炭素式年代測定法によると6世紀後半と推定されるとの検査結果も出ており、白村江の戦い(663年)以前に城山に城塞があったことの可能性が極めて高い。白村江の敗戦に備えて築城されたはずの金田城が6世紀の築城ではおかしい。金田城は城山とは別の場所にあったとするのが、科学的な結果と整合性のとれる唯一の結論であると考える次第である。
最後に、「金田城椎根説」を裏付ける有力な資料を紹介して、当説の補強材料としたい。資料は「対馬島誌所引の対馬編稔略」である。
そこに、阿比留一族が対馬の支配者となる経緯が書かれている。女真族といわれる「刀伊の賊」の来寇を防ぎ、殲滅した際の記述である。
「刀伊賊と佐須で合戦した後、椎根に引き入れ、金田を以て本城と為す」と、金田城が椎根にあったことを、明確に記述したものである。
以下にその原文を記す。
「弘仁八年(817)、就刀伊国賊追討之事公卿僉議(センギ)有之処、被定申上総国流人比伊別当可然之間、別当卒去之故、重被召其子畔蒜太郎同二郎同三郎、三将催軍兵到当島、早速於佐須合戦、賊徒引入椎根、以金田為本城、堅守不降、太郎中矢死、二郎三郎終始於和歌田奥、撃竜羽将軍獲其首」とある。
金田城はやはり、椎根にあったのである。そして、国の特別史跡とされている城山の金田城は「黒瀬城」ということになる。
したがって、黒瀬城は、「紀」に記述されなかった一群の神護石系の朝鮮式山城に属する城塞の可能性が極めて高いと推測される。残念ながら今回、私は史跡の金田城の石塁を間近で仔細に見ることができなかった。もし、それが列石で造られた石塁であったとしたら、黒瀬城が大和王朝成立以前に築城されたものであることは確かなのだが…。
以上、伝承というものが信憑性が薄い資料的価値の少ないものと一概に切って捨てるのももったいない、傾聴すべき歴史的事実を伝えていることもあるのではないかということを、お分かりいただければありがたい。
ということで、次号は、いよいよ「Ⅳ.天孫族と海人族の融合伝説に彩られた対馬」という本論へと入っていくことにする。
【野田 博明】