【連載コラム】鎌倉探訪シリーズその2「鶴岡八幡宮」

ウィリアム J. ヤング筆者:ウィリアム・J・ヤング

鎌倉生まれ、鎌倉育ちの元アメリカ海軍少佐で、海軍認定のテロ対策教官も務めてました。現在は日本の企業や市民団体にテロ対策を教えるコンサルタントとして活躍しています。
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日本の歴史・文化に造詣が深く、アメリカ人ならではの視点から、日本人には新鮮な観点で海外の方には分かりやすく日本の社寺の魅力を紹介しています。
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鎌倉に住むものとして、連載の第一弾として鶴岡八幡宮を取り上げなかったことは怠慢であったかもしれません。この神社はもともと源氏の氏神様でありましたが、そのことからゆくゆく鎌倉の町の守護神となりました。一方で武神と称えられ、豊臣秀吉や徳川家康をはじめとする、たくさんの武士からの崇敬を集めてきました。彼らが戦におもむく際には、鶴岡八幡宮で戦勝祈願を行いました。以前、泉岳寺と赤穂事件の記事で紹介した大石内蔵助を覚えているでしょうか?彼は、仇討のために江戸(今の東京)の吉良上野介の元へ向かう道中に、討ち入りの成功を八幡宮で祈願しました。

鶴岡八幡宮をご紹介とはいったものの、この神社の説明はすでにたくさんのすばらしいガイドブックによってなされています。なので、神社そのものについてはそれほど多くは語りません。八幡宮と歴史と自然がどのように関わって今の鎌倉の町が出来たのか、一緒に鎌倉のメインストリートを歩きながら、見ていくことにしましょう。

その前に鶴岡八幡宮の歴史について、ほんの少しだけ触れることにしましょう。鶴岡八幡宮と言えば、そびえ立つ丘の上に鎮座する姿を思い浮かべるかもしれませんが、もともとは別の場所で創建されました。実のところの、その起源は、1063年、源頼義が鎌倉に京都近郊の石清水八幡宮から勧請したことにあります。当時は、浜辺の側に位置し、小さなものでありました。1180年に源頼朝が鎌倉を本拠とした時に、鶴岡八幡宮を現在の場所である、鎌倉を見下ろす丘の上へ遷座をはじめました。本来の場所には、由比若宮といわれる末社が鎮座しており、主に近隣の住民がお参りしています。私はたいてい、新年の初詣の際には、鶴岡八幡宮で人混みにもまれ長蛇の列に並ぶよりはむしろ由比若宮へお参りすることにしています。同じ神様が別の場所に祀られているのです。ところで、このコラムに掲載されている写真は一枚をのぞいて全て、2017年の正月に撮影されたものです。

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由比若宮

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由比若宮

この写真は由比若宮です。2017年の元旦に、妻と一緒に参拝に訪れた際に、撮影しました。本殿は小屋ほど大きさしかありません。普段は社務所に常駐している人はいませんが、1月1日~3日は、地元の方が新年の挨拶に訪れるので、社務所でおまもりを頂くことが出来ます。また、前年のおまもりをお焚き上げしてもらうための受付もあります。(「おまもりは繰り返し使わない。ゴミ箱に捨てない。」という習慣があります。)

さて、本題の鶴岡八幡宮の話に戻りましょう。鎌倉駅の東口を出て、若宮大路へ向かいます。この道は、源頼朝が第一子の無事の出産を神様に祈るために造らせました。八幡宮は左側なのですが、一度右へ曲がって、通りの駅側の歩道を海岸に向かって歩くことをお願いしたいと思います。なぜならば、最初に一の鳥居があった場所へご案内したいからです。陸橋をくぐると、およそ300ヤード先に一の鳥居が見えてきますので、鳥居に向かって歩みを続けてください。その鳥居は少し坂を上った頂上に立っているので、鳥居の側まで進むと綺麗な海を臨むことが出来ます。しかし、ここは本来の一の鳥居の場所ではありません。ここでUターンし、再度歩き始め、八幡宮の方へ向かいます。歩道橋の下をくぐり、横断歩道を渡り、ファストフード店の前で止まってください。

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浜の大鳥居跡の石碑

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鳥居の土台の跡

あなたのすぐ右側に小さな草むらがあります。そこには、丸い形の石の模様と記念碑があります。(もしかすると、草むらの周りを囲む柵に自転車が固定されているかもしれません。持ち主はハンバーガーを食べているのでしょう。)そして、道の反対側にも同様の丸い石の模様があります。これらの石の模様は、この場所に本来の一の鳥居の土台があることを示しています。この鳥居は浜辺のすぐそばに建てられたと伝わっています。記念碑には、この一の鳥居を、「浜の大鳥居」と記しています。

「浜辺はもっと遠くじゃないか!」と思うことでしょう。今ではそうですが、1180年当時は違いました。鎌倉時代(1192-1333)当時の鎌倉の町の模型を見てしましょう。

国立歴史民俗博物館所蔵

国立歴史民俗博物館所蔵

今と比較して、当時の海岸がいかに内陸にあるかを見てください。海の大きな力がそれ以降の海岸線を変えてしまったのです。今に比べて5倍の人口密度だったと推測される当時の首都鎌倉を建設し支えていくための交易量は膨大でありましたが、その交易ルートは7つの丘に遮断されており不便でした。つまり、港が必要とされていました。模型をご覧ください。右下のエリアにフックの形をした建造物があります。これが源頼朝の建設した港です。和賀江島として知られる日本で最も古い人工の港です。この港が防波堤となり起こした海流の変化は、浜辺に巨大な砂の山を出現させるほどのものでありました。今の一の鳥居は、かつてこの砂山であった場所にあります。見ての通り、この砂山は当時の一の鳥居を覆い隠すほど高さになりました。確証を得ることは出来ませんが、鎌倉の歴史の中のどこかのポイントで、役人の誰かが鳥居が海から臨めないのはよろしくないと考え、鳥居を今の位置に移動させることに決めたのでしょう。

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現在の一の鳥居

この写真は歩道橋の上から撮影しました。鳥居は海を背にしています。坂道が一の鳥居に向かってのびてくる様をご覧頂けるでしょう。

二の鳥居、段葛の始まり。道の幅に注目。

二の鳥居、段葛の始まり。道の幅に注目。

それでは、鶴岡八幡宮に向かって歩いていきましょう。二の鳥居に到着すると、そこから先の道が一段高くなっていることに気が付くでしょう。この道は「段葛」と呼ばれ、八幡宮へ続く神聖な道です。道は最近になって改葬され、全面舗装がなされていますが、2014年までは固められた土の地面でありました。段葛を歩き始める前に、道の端から端までの歩数を測ってみてください。この数字を覚えておいて下さいね。

三の鳥居

三の鳥居の手前にて

段葛を歩いていきましょう。すると、三の鳥居の手前の交差点にさしかかります。ここでもう一度、道の幅を測ってみます。いかがでしょうか?最初より半分の歩数になるはずです。これは一体なぜでしょうか?のちほど説明します。

正月は参拝者が大変多いため、八幡宮と参道をうまく写真におさめることが困難でした。この写真は昨年の鎌倉警察署のイベントの時に撮影した私の妻の写真です。この写真は、段葛の出口にさしかかるところで撮影しました。道幅は4人が並んで歩けるほどであることが見てとれるでしょう。二の鳥居の幅にあわせた段葛の入口の道幅に比べて明らかに狭くなっています。

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三の鳥居

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境内の様子

交差点を渡り、三の鳥居をくぐると、八幡宮の境内にはいると、二つの大きな池があります。この二つの池はひょうたんのような形でつながっていって、その上に3本の橋がかかっています。真ん中にある丸く盛り上がった形の「太鼓橋」は今では通行が禁止されていますが、子供の頃は、よく走り回って楽しんだものでした。

この最後の写真は、元日に橋をちょうど渡ったところで撮影したものです。警察は人の波を本殿に向かって誘導していました。一時間待ちましたが、私はすでに由比若宮への御挨拶を終えていたので、諦めてアイスクリームを食べに行くことにしました。

本宮へ続く急な階段に向かって歩いていくと、最初に目に入る建物が「舞殿」です。鎌倉時代にさかのぼると、ある伝説的な舞踊があります。その舞を舞った人物は静御前、源頼朝の弟・義経の配偶者です。(私のコラムの読者の皆様は妻が鎌倉のイベントに義経に扮して登場していることをご存知かと思います。)静御前は、頼朝によって舞を舞うように無理矢理に命じられた時、愛する義経を称賛する舞踊を披露したのです。実際のこの舞踊は、おそらく別の場所で舞われたのだと思います。しかし、この美談は、些細な真実によって台無しになるようなものではありません。なので、毎年4月、鎌倉祭の開催の間、静御前の舞踊はこの舞殿で披露されています。鶴岡八幡宮での神前結婚式について、のちのち詳しく説明をしていくこととしましょう。
それでは、本題に戻ります。舞殿から、本宮へ続く急な階段を登り切り振り返ると、町全体を見渡すこと出来ます。海まではっきりと視界にとらえることでしょう。鎌倉では、4階以上の建物をたてることが条例によって禁止されています。人間が八幡神の視界を遮ることは許されないことです。しかし、一つだけ例外があります。戦後復興の最盛期に建てられたデパートです。この時はまだ条例が施行される前でありました。(注意!急な階段を歩いて下りるのは手すりがないので、大変危険です。本宮の両脇には手すりのついた階段があるので、こちらを利用した方が安全です。)

さて、段葛の道幅が入口の出口で異なる理由とはなんでしょうか?芸術的な理由と防衛的な理由の二つがあります。まず、芸術的な理由とは、海に向かって段葛を見るとどのように見えるでしょうか?道は両端が平行に伸びて見えるはずです。もし、実際に両端が平行に作られていた場合はどうでしょうか?遠くに行くにつれて、道は細くなっていくように見えるでしょう。変わったデザインによって、道はまっすぐに美しく伸びているように感じさせます。

もう一方の、防衛的理由とはなんでしょうか?鎌倉幕府の支配力はまだ弱いものであったので、源頼朝は攻撃に対して反抗する力を蓄える必要がありました。海岸から来た敵軍は、段葛の先がより細長く見えるデザインによって錯覚を起こし、距離の判断を見誤ります。敵軍は防衛軍の矢の射程圏外にいると思っていても、すでに射程圏外にはいっているのです。孫子も言うように、地形を知ることは戦いに重要なので、本来の地形を変え、新しい地形を作ったのです。

どちらの理由にあなたは共感したでしょうか?私は軍人出身ということもあり、防衛的な理由を重視しています。しかしながら、源頼朝は両方の理由をもって段葛の建設にあたったことでしょう。

最後に本宮の方を振り返り、八幡様に一礼をしましょう。あなたが戦国武将のファンであるならば、豊臣秀吉や徳川家康、大石内蔵助らの伝説の武将たちの足跡をたどる道のりは至福のものとなることでしょう。