(第一話はこちら)
5月3日早朝、鉄の愛馬と共に岐阜県垂井へと向かいました。途中で何度か渋滞に捕まったものの、何とか昼過ぎには垂井に到着することが出来ました。 洋介さんの到着は一時間後の予定です。その間は、前回の訪問時に洋介さんから紹介していただいた不破さんが色々と案内してくれました。 曳山祭り昼の部では、地元の子供たちが曳山で歌舞伎を演じていましたが、私が観た東町の曳山では、池から女性を釣り上げる演目が行われていました。その後不破さんと私は洋介さんを迎えに垂井駅に向かいました。駅に着くと不破さんはエスカレーターの段の真ん中の黄色い線を指して、 垂井駅よりも東側にあるエスカレーターでは人々は左側に立つが、駅よりも西側にあるエスカレーターでは人々は右側に立つ習慣があると教えてくれました。一般的に、東日本ではエスカレーターの左側に立ち、西日本では右側に立ちます。垂井はちょうど東日本と西日本の境目付近であるために、 駅のエスカレーターの真ん中には黄色の縦線が入っているそうです。
私たちは改札で洋介さんを迎え、お祭りで賑わう、旧中山道でもある垂井のメインストリートを歩きました。 この写真は洋介さんの到着直後、駅前の観光案内所で撮影した私たち三人の写真です。スーツ姿の洋介さんとグレーベストを着た不破さん、 そしてUSAのサスペンダーでバイク用の重い革パンツを吊り上げた私が写っています。
お祭りを少し見物した後、洋介さんと私は半兵衛公のお墓参りをするため禅幢寺へ向かいました。 順番に墓前に手を合わせ、仏花とお焼香、お酒を供え、最後にタクシーの運転手にお願いし、 寺の入口前で二人の記念写真を撮ってもらいました。その写真はとても素晴らしく、空の上から私たちふたりを祝福するかのような光に包まれていました。 洋介さんと私は「これは将来良い事が起きる予兆ではないか」と強く感じました。 半兵衛公は私たちふたりが仲良く訪問したことを快く受け入れてくれたに違いないと。
右の写真は禅幢寺が所有する半兵衛公の肖像画です。 私にはこの肖像画に描かれている半兵衛公と、上の写真の洋介さんが大変よく似ていると感じるのですがいかがでしょうか?
タクシーは垂井町の中央部に戻る小道を走り、半兵衛公の息子である重門公が平地に建てた要塞の前で止まりました。 そこではちょうどその時、地元の岩手竹中半兵衛重治公顕彰会が竹中半兵衛公の顔ハメ看板を設置している最中でした。 会員達が半兵衛公の銅像の隣にその看板の設置を終えた頃、洋介さんがそれを使えるかと尋ねると、 彼らは喜んでそれを使わせてくれました。右の写真が撮られた後に、 会員達の一人が洋介さんのスーツの襟に着けられた竹中家の紋章のラペルピンに気付き、 半兵衛公と何か関係があるのかと尋ねてきました。彼らはその看板を初めて使った人物が半兵衛公の末裔であったことに大変驚嘆していました。
タクシーに戻ると、今度は運転手があの騒ぎは一体何なのかと尋ねてきました。ことの次第を説明すると、
彼も大変驚き、「妻に僕が半兵衛公の末裔を乗せたことを自慢するよ!」と言い、多くの歴女(歴史好きの女性) が夕暮れ時に禅幢寺に参拝しに来ていると話してくれました。彼はなぜそんな時間にわざわざお墓参りをするのかと 不思議に思っている様子でした。「きっと女性たちは暗闇の中で半兵衛公と直接会えることを期待してその頃に来るのだろう」 私は洋介さんに軽い冗談を飛ばしました。この時は深く考えていませんでしたが、後にまたこのことを思い出すことになります。
タクシーを垂井の中心街に向かって走らせながら、私の頭にふと昌代さんについて妙案が浮かびました。 ここまで私は彼女へのお土産を何にしようか熟考していました(お土産を渡すという口実でもう一度彼女に会うために)が いまひとつしっくりくるものは浮かんできませんでした。垂井は小さな町で有名な特産品はなく、果たしてこれで喜んでくれるのだろうかと不安を感じながらも、 観光協会が販売する半兵衛公ポロシャツを彼女へのお土産として購入していただけでした。
タクシーの中で、ぼんやりと垂井への初めての訪問を思い返していた私の脳裏にコーミのソースがよぎりました。 昌代さんはソースの味を好み、その中でも焼きそばが一番の好物であることを思い出しました。 また、彼女は加工食品や添加物、保存料を使ったものを嫌っていることも、私は知っていました。 天然素材しか使っていないソース、これ以上に私がどれほど彼女のことを想っているかを表せるお土産はありません。 それに、このソースは関東には売っていません。これだ!
早速購入したコーミソースをサドルバッグに入れパレードを見に行くと、空が薄暗く染まる中、 中山道を通った曳山が垂井町中央の一角にある八重垣神社の前に集まってきました。 それはとても感動的な光景でした。3輌の曳山はそれぞれ二階建てほどの高さがあり、神社前の広場で横に2輌が並び、 そのふたつの間にもう1輌が縦に立ち「T」の字形を作り、その縦になった1輌の曳山は八重垣神社の方を向き歌舞伎を奉納します。
この歌舞伎を奉納する曳山は西町、中町、東町と1年毎に順に回っているそうです。 沈みゆく陽の光で、曳山の背後にある山脈のシルエットが浮かぶのを背景に、曳山の上に立つ垂井町の若い男達が扇子を振っている、 それはとてもドラマチックな光景でした。完全に陽が落ちると、笛が吹かれ、それぞれの曳山のあちらこちらに飾られた紙提灯の全てに、 どの曳山が一番早く火を灯し終えるかを競い合います。3輌の全てが灯し終わると、T字形の縦に位置した曳山で子供たちが地元の神のために歌舞伎を捧げます。
この光景は大変素晴らしく、私が垂井町を好きになった瞬間でした。
お祭を楽しんだ後、洋介さんと不破さんと私は地元の居酒屋で祝杯をあげました。
ビールを2、3杯飲んだ後、不破さんから9月に地元の人たちがサムライの格好をして垂井町でパレードをするという話が出ました。 それを聞いた私は半分冗談交じりで、自前の弁慶の衣装を引っ張り出して私も是非、垂井町のパレードに参加したいと言いました。 洋介さんと不破さんはそれを名案だと思った様子で、不破さんは「時期が近付いたら垂井町商工会に提案する」と言ってくれました。
その後、不破さんと私で東京への長い道のりを帰る洋介さんを垂井駅まで送り、 私はバイクに跨り(私はノンアルコールビールを飲んでいました)その晩の宿泊先である大垣市へと向かったのでした。
もう一度繰り返しますが、皆さんに覚えていてほしい大切なことは、
ロケーション:岐阜県垂井町禅幢寺。竹中家の菩提寺
<歴史上の人物>
竹中半兵衛(戦国時代の名軍師)
武蔵坊弁慶(鎌倉時代の有名な僧兵)
源義経(弁慶の主君、鎌倉時代屈指の名将)
<現代の人物>
竹中洋介(竹中半兵衛の子孫)
ビル・ヤング(筆者、現代の武蔵坊弁慶役)
昌代さん(現代の義経役)
筆者は元アメリカ海軍少佐で、海軍認定のテロ対策教官も務めてました。
現在は日本の企業や市民団体にテロ対策を教えるコンサルタントとして活躍しています。
彼のホームページはこちら:http://www.rhumbline.co.jp/