本題に入る前に、まずはサブタイトルにもある戦国軍師のお話から始めましょう。
私が今回の主要人物、戦国軍師・竹中半兵衛公(1544年9月27日-1579年7月6日)に個人的に関わるようになったのは、 4年前、その子孫である竹中洋介さんを紹介されたことがきっかけでした。洋介さんと出会うさらに6か月前、TVの侍シリーズ「戦国疾風伝二人の軍師」(テレビ東京)で半兵衛公を目にし、 興味をそそられた私は半兵衛公のことを詳しく調べるようになりました。そしてすぐに、半兵衛公は私のお気に入りの戦国武将となりました。竹中半兵衛公は、日本全国を群雄が割拠し、 天下統一を目指し争い合った戦国時代に天才軍師として名声を集めた人物です。彼の名が一躍有名となったのは、1564年、自らの主君である斎藤龍興が酒色に溺れたことから、 その居城である稲葉山城をわずか16人で奪取したことからでした。彼はこのことがきっかけで二番目に日本を統一した天下人、豊臣秀吉公に仕えることになり、結核により36歳で生涯を終えるまで、秀吉公に最も信頼された家臣のひとりでありました。
竹中半兵衛公が治めていた領地は今の岐阜県、関ヶ原のあたりでした。関ケ原は必要不可欠な輸送路である琵琶湖と、肥沃な美濃平野を結ぶ山道の入り口に位置している要衝でした。 さらに付け加えると、関ケ原は現代でも大雪でしばしば新幹線が足止めされるような地域で、何よりも、慶長5年(1600年)9月15日天下分け目の関ヶ原の戦いで、 徳川家康公の軍が石田三成公の軍を打ち破った地として広く知られています。この戦の後、1603年に徳川家康公が江戸幕府を開いてから1868年まで265年間続 く平和の時代を切り開く大きな契機となった場所なのです。この関ヶ原の合戦の数十年前に半兵衛公自身は他界していますが、半兵衛公が 徳川軍の勝利に影響をもたらしたことは明らかです。この歴史的な戦いが半兵衛公の縄張り内で起こったということも、半兵衛公に相応しいことのように感じます。この件についての詳しいお話はまた後日。
さて、時を現代に戻して、日本最大の合戦から約415年共通の友人に連れられた竹中洋介さんが私と一緒に商談の席に着くこととなりました。 昼食中のたわいない話の中で、洋介さんが竹中半兵衛公の子孫であることが明らかになりました。私たちは、支部は違うものの、共にある大きな慈善団体のメンバーであり、 それも友情を育む助けとなって、親しい友人付き合いが始まりました。その後洋介さんは地元兵庫県へ帰ってしまいましたが、今でも1年に2、3回は岐阜県の垂井町で会っています。 なぜ垂井町なのか?それは現在、垂井町は半兵衛公の故郷として知られているからです。現在の行政区画においては、菩提山の山頂にある半兵衛公の城と、 彼の息子によって建てられた平地の城は、共に関ヶ原町ではなく垂井町にあります。そしてこの私の物語の中で一番重要なポイントは、垂井町の岩手地区に竹中家の菩提寺である禅幢寺があり、 そこに竹中半兵衛公の魂が眠っているということです。禅幢寺の本堂の隅巴には、竹中家の家紋が刻まれています。
※禅幢寺は「ぜんどうじ」とも、「ぜんとうじ」とも発音されます。私の親しい垂井の住人は皆、「ぜんどうじ」と発音するので、私もそれにならいます。
話が行ったり来たりするのは好ましくありませんが、みなさまにこの物語の展開を理解してもらううえで、12世紀まで遡り、 武蔵坊弁慶についてもお話しなければなりません。通称「弁慶」と呼ばれている、平安時代末期の武将・源義経公に仕えた伝説の僧兵です。 この弁慶、そして源義経公、義経公の兄・頼朝公、鎌倉幕府(1192年―1333年)については、この後の私の物語と関わりを持ってきます。弁慶は全国的に有名な人物ですが、 私の地元であり鎌倉幕府が開かれた地、鎌倉では特に有名です。その巨体、武勇、そして主君である義経公への揺るぎない忠誠。弁慶と義経は、6年間に及ぶ源平の戦いで平氏の軍を打ち破りましたが、 その戦のひとつ、一ノ谷の戦いは、現在の神戸の郊外で起こりました。
平家軍は渓谷の麓の海岸に陣を構えていました。その軍勢の側面は厳重に守られていましたが、背後の渓谷は急勾配で、 源軍の騎馬兵や歩兵が駆け下りてくることは不可能であると、背後の守りを配置していませんでした。そんな中、源軍・義経公がある地元の狩人と話をしたところ、 時々鹿が斜面を駆け下りているということが分かりました。鹿が下りることが出来るならば馬にも出来るはずだと考えた義経公は、2体の馬を崖っぷちまで追いやり、 どうなるのかを確かめました。馬はなんとか急斜面を駆け下りることが出来ました。それを見た義経公は、弁慶をはじめとする兵士達に乗馬を命じ、背後からの騎馬攻撃により平家の陣営を壊滅させることに成功しました。
ではまた、一気に時を進めること16世紀、戦国軍師・竹中半兵衛公は一ノ谷の戦いでの義経公の戦術を高く評価していました。 半兵衛公は垂直に曲がった兜を作り、それを一ノ谷兜と呼んでいました。(私にはそれはレーダーアンテナのように見えるので、 その兜が実際に一ノ谷を表していたものであると信じるしかありません。)兎に角、その兜は半兵衛公のトレードマークとなりました。そしてそれは後に、 関ヶ原で戦った一人の武将に受け継がれることとなります。その兜は、わずかではあるものの、半兵衛公と義経公と弁慶を関連付けていると、私は思います。また、竹中氏は源氏を起源としています。 こちらは垂井駅前で撮影した、私の友人洋介さんと、彼のご先祖である半兵衛公のツーショット写真ですが、半兵衛公が被っているのが一ノ谷兜です。
この写真は、昨年の垂井町のお祭りで見かけた猫ですが、一ノ谷兜のレプリカを被っていました。そして写真の中で、猫のすぐ後ろの垂れ幕に書かれているマークは竹中家の家紋です。
それでは、21世紀に戻りましょう。2010年、以前から親交のあった鎌倉市議会議員の松中さんに、鎌倉とんぼの会へ参加するように誘われました。 とんぼの会は、武士の鎧のレプリカを制作するNPO団体で、地域の行事に鎧のレプリカを身につけて参加し会場を盛り上げます。私が加わることになった頃、 その会は鎌倉をユネスコ世界遺産に推薦する活動にも携わるようになりました。私は弁慶を演じるように依頼されました。それは、特に私が何か優秀であったからではなく、 体格が大きかった私は弁慶の役にぴったりだと思われたからでした。その時から私は鎌倉地域のちょっとした有名人になりました。私が弁慶に扮する時はいつもサングラスをかけているので「グラサン弁慶」と呼ばれています。
さて、ここまでで物語を進めるうえで必要なことはお話出来たはずなので一休みとしましょう。
話が少し複雑だったかもしれません。今後のストーリーの中で重要になるポイントをまとめておきます。
<物語の舞台>
岐阜県垂井町禅幢寺(竹中家菩提寺)
<歴史上の人物>
竹中半兵衛(戦国時代の名軍師)
武蔵坊弁慶(鎌倉時代の有名な僧兵)
源義経(弁慶の主君、鎌倉時代屈指の名将)
<現代の人物>
竹中洋介(竹中半兵衛直系の子孫)
ビル・ヤング(筆者、現代で武蔵坊弁慶役)
筆者は元アメリカ海軍少佐で、海軍認定のテロ対策教官も務めてました。
現在は日本の企業や市民団体にテロ対策を教えるコンサルタントとして活躍しています。
彼のホームページはこちら:http://www.rhumbline.co.jp/