【連載コラム】古の軍師が現代で恋のキューピットに!?第六話: 墓からの救いの手

▲ペンネーム:なべあきお (垂井町在住、イラストレーター)

▲ペンネーム:なべあきお
(垂井町在住、イラストレーター)

(第一話はこちら

洋介さんと半兵衛公のお墓参りを行った垂井旅行の後から、私の周りの色々なことが上向きになりました。 謎めいた、うまく説明の出来ないようなことが次々と起こりました。
私が次に昌代さんに会ったのは旅行から2週間後で、予定していた昼食会に、 私達の関係を何も知らない共通の友人が昌代さんも招待したからでした。友人達と昼食を楽しみ、 彼女を家まで送り、ほんの小さなきっかけから私は彼女の信頼を得ることに成功し、 その晩のうちに親しい友人になることまで出来ました。
(彼女はコーミソースを大変気に入ってくれました。)
私たちは夏の間も会い続けてさらに親しくなり、私はこの上なく幸せでした。 しかし私たちは最後まで”良い友達同士”でした。このような経緯を辿ってきた経験だけは豊富な私は、 このままでは昌代さんがどこかの彼氏との問題をあれこれ私に相談し始めるのは時間の問題であり、 すぐにでも何とかしなくてはならないと分かっていました。私は昌代さんを悩ませる彼氏の話なんて聞きたくない、 それよりも私が昌代さんを悩ませる彼氏になりたかった。

7月初旬、今は兵庫県に住んでいる洋介さんから一通のメールが届きました。
「9月のパレードに弁慶姿で参加すると、あの時酔っ払いながら話したことを覚えていますか?」
不破さんから垂井町商工会へ話が行き、私の元に正式な参加の招待が届きました。私は洋介さんの分の甲冑も借りて用意するから洋介さんも甲冑に身を包み、竹中家末裔の復活と称して垂井町パレードに参加するべきだと考えました。 洋介さんもそれは名案だと答えました。そして昌代さんにも洋介さんと私と一緒に垂井町パレードに参加しないかと誘ってみたところ、 返ってきた返事は「参加したい」でした。
この垂井町パレードは毎年9月の第二日曜日に行われるのですが、この年はそれが13日で、 たまたま関ヶ原の合戦という歴史的は戦いが起こった9月15日と近かったため、その大合戦を記念したイベントも 同日に執り行われることになっていました。そしてパレードだけでなく、私達はその記念イベントにも招待されていました。 そのことは私の中であることを考えさせます。

関ヶ原の戦いは徳川家康公のその後の運命を決定づけた戦いであり、 家康公にとっては”天下”を支配するためのひとつの賭けでした。しかし戦いが始まる時点での家康公はかなり劣勢な立場に 立たされていました。関ヶ原では家康軍の周囲の高地はすべて石田三成勢が固めていました。家康公が率いる軍勢は、 元は豊臣秀吉公の家臣達であり、この戦における家康公への忠義は不安定で、息子の秀忠が率いていた、 家康公への絶対的な忠義を持つ家臣達の到着は、現在の長野県上田市にある上田城での真田軍との戦いのため予定よりも遅れていました。 地形的に不利な状況と主力軍を欠いた家康公、誰もが皆石田三成軍の勝利を確信するところでしょう。 数ヶ月に及ぶと思われていたこの戦いは、約6時間後になんと家康軍の勝利で終焉を迎えました。 半兵衛公の死後20年余りが経過してから起きたこの大合戦ですが、半兵衛公が家康公に勝利をもたらしたのだと私は考えています。

関ヶ原の戦いについてはまた後程のコラムで詳しく取り上げますが、私の個人的な物語の展開を理解していただくために、 半兵衛公の死後に起きたこの関ヶ原の戦いでも、彼は中枢的な役割を果たしたことを理解してもらいたいのです。 そのために1578年まで遡ってみましょう。
私は以前のコラムで、半兵衛公は豊臣秀吉公の軍師として有名であったと記述しましたが、 織田信長公より命を受け豊臣秀吉公の軍師になった有名人物がもう一人います。黒田官兵衛公です。
(こちらのコラムでは、竹中半兵衛公と区別するため今後黒田公と呼んでいきます。)
当時はよくあることですが、 黒田公は信長公に仕えていた時、黒田公自身の息子・松寿丸を人質として信長公の元へ送っていました。この時代、 人質は忠誠を誓った証として、政略結婚と同じくらいの重要な意味がありました。1578年、信長公に仕えていた 他の武将たちが反旗を翻しました。その中心となった人物は荒木村重公でした。黒田公は、村重公に信長公の元へ戻るように説得するため、 摂津(現在の大阪府摂津市)にある城まで出向きましたが、その結果、黒田公は村重公により城の地下牢に一年間幽閉されてしまいました。 黒田公からの連絡が途絶え、黒田公も寝返ったと信じ込んだ信長公は、人質であった黒田公の息子・松寿丸を処刑するように命じました。 しかしこれを命じられた竹中半兵衛公は、自ら松寿丸を隠すことを決め、最も信頼する家臣である不破矢足に松寿丸を預け、 屋敷に匿うよう命じました。
半兵衛公の死後、地下牢から救出された父黒田公と再会した松寿丸は、無事成人し、長政という名前になりました。 長政公は後に徳川家康公に仕えるようになり関ヶ原の戦いに参戦します。長政公こそが、 半兵衛公の有名な一ノ谷兜を被りながら関ヶ原を駆け抜けた武将です。私の考えでは、この長政公は家康公に勝利をもたらすために、 なくてはならない存在でした。これもまた後のコラムで述べる予定ですが、関ヶ原の合戦の後、長政公は家康公の 家臣の中で最も多く報酬を与えられています。家康公も長政公の偉大な貢献を認めていたということです。

さて、ではこれまでの話と昌代さんと私に一体どんな関係があるのでしょうか。

9月15日の世紀の大合戦で家康公が”天下”を勝ち取ったように、私も”天下”を手に入れるためには ここで行動しなくてはと心に決めました。そしてそれを実行するのは、垂井町からの帰り道9月14日。 しかし正直、私ひとりの力では心許ないところ、もしも誰かの力を借りるのならば、 半兵衛公よりも適した人物などいるでしょうか。9月14日の朝は、洋介さんと昌代さんと私の3人で半兵衛公のお墓参りをする、 ということがもうすでに決まっていました。これは私にとっては半兵衛公の協力を仰ぐ絶好のチャンスです。 名立たる戦国武将に向かって恋の力添えを頼む変わった外人なんて、笑い飛ばされるだけかもしれないけど。 そんなことを考えながら、墓前にお供えするお酒としてジャックダニエルを1本用意しました。 この写真は垂井に出発する前日の、出陣用意を整えた我が家の玄関です。右端の、荷物に埋もれそうなもこもこは 私の愛犬のポンチョ君です。この時彼は自分も垂井町に行くつもりでいましたが、今回は残念ながらわんちゃん ホテルでお留守番してもらいました。 写真にも写っています、ジャックダニエルのことは覚えておいてください。

そして引き続き、みなさまに覚えていていただきたいことを、ひとつ追加しておきます。
ロケーション:岐阜県垂井町禅幢寺。竹中家の菩提寺

<歴史上の人物>
竹中半兵衛(戦国時代の名軍師)
武蔵坊弁慶(鎌倉時代の有名な僧兵)
源義経(弁慶の主君、鎌倉時代屈指の名将)

<現代の人物>
竹中洋介(竹中半兵衛の子孫兼、現代の竹中家の殿役)
ビル・ヤング(筆者、現代の武蔵坊弁慶役)
昌代さん(現代の義経役)

筆者は元アメリカ海軍少佐で、海軍認定のテロ対策教官も務めてました。
現在は日本の企業や市民団体にテロ対策を教えるコンサルタントとして活躍しています。
彼のホームページはこちら:http://www.rhumbline.co.jp/

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