【連載コラム】古の軍師が現代で恋のキューピットに!?第四話: まだ暗い穴の中

(第一話はこちら

私が次に昌代さんを見たのは、大失敗した告白から三か月後、以前参加を約束してくれた義経祭りでした。言うまでもなく、昌代さんの輝く甲冑姿は観客に大人気でした。
集まった写真家たちは皆私たちについて移動し写真を撮り続け、「源義経公はミス鎌倉よりも綺麗だ!」という人もいたほどで、 数週間後には、数枚の昌代さんの写真と共に「鎌倉市はついに今年はプロのモデルを雇ったみたいだ」と書かれたブログまで見かけました。これはその時に満福寺で昌代さんと撮った記念写真です。

私たちは、義経公が弁慶に腰越状を作成させている像の前にいます。この腰越から始まる義経公と弁慶の悲劇は、この後の満福寺を特集する記事で詳しく触れることにして、ここで重要なことは、 義経公と弁慶の歴史はこの満福寺を境に悪い方向へ向かっていったということです。
今日の義経公と弁慶にとっても、満福寺は物事が悪い方向へと向かっていく始まりであるようです。 4月中旬であったにも関わらず、私たちの関係は寒い冬のように冷めていて不安でした。 もうすぐやってくるゴールデンウィークという有り余る時間を、ひとりで一体何をして過ごそうか、何も思い浮かびませんでした。

そんな中、義経祭りから一週間が経った頃、洋介さんから一本の連絡が入りました。 ゴールデンウィーク真っ只中の5月3日、一緒に垂井を訪れ曳山祭りを観に行こう、というものでした。
毎年5月2日から4日にかけて垂井で行われているこのお祭りは、稚児歌舞伎と呼ばれる芸児の歌舞伎と、 西町の「攀鱗閣(はんりんかく)」、中町の「紫雲閣(しうんかく)」、東町の「鳳凰山(ほうおうざん)」という3輌の曳山と呼ばれる山車が有名です。
折角の大型連休、このまま関東に居ても特別な何かがある訳でもないため、私は垂井への旅行を決めました。 そしてゴールデンウィークによる大渋滞を少しでも避けられるよう、バイクで垂井を目指し東名高速を走ることにしました。 私が旅行を決めた時にはすでに新幹線の指定席は完売していたので、あとは乗車率200%を超えるすし詰め状態の自由席しかなかったからです。(ちなみにアメリカではこの状態のことを“いわしの缶詰”と言います。)

ここに斎藤道三公の格好をしてバイクに跨がる私の写真があります。とんぼの会で初代弁慶を 演じていたメンバーが一時的に弁慶役に戻らなければならず、この時私は斉藤道三公を演じました。
興味深い事に、竹中半兵衛公は元々、道三の孫の斉藤龍興公に仕えていました (この龍興は、斉藤道三の養子であった、斉藤義龍の息子です。義龍は長良川の戦いで、父である道三を討ち倒した人物で、父に対する尊敬や孝心などは持ち合わせていませんでした。)が、この龍興公はひどく堕落した人間で、役に立たず、教育が必要であると判断した半兵衛公はクーデターを起こし、 白昼堂々、たった16人で主君・龍興公の城であった稲葉山城に乗り込み占領してしまいました。 (一度は手に入れた城ですが、後に数々の非を認め謝罪してきた龍興にすんなりと城を返しています。)

この写真が撮られた当時は、鎌倉をユネスコの世界遺産に登録しようという運動の最中で、 私はその運動をアピールするため、甲冑姿でバイクに跨がり会場までを往復していました。 残念ながら、我が鎌倉世界遺産登録の夢は実現されませんでした。もちろん、この兜はJIS認定のバイク用ヘルメットを改造したものですので ご安心ください。もっとも、今回の垂井旅行には被って行きませんでしたが。

ロケーション:岐阜県垂井町禅幢寺。竹中家の菩提寺

<歴史上の人物>
竹中半兵衛(戦国時代の名軍師)
武蔵坊弁慶(鎌倉時代の有名な僧兵)
源義経(弁慶の主君、鎌倉時代屈指の名将)

<現代の人物>
竹中洋介(竹中半兵衛の子孫)
ビル・ヤング(筆者、現代の武蔵坊弁慶役)
昌代さん(現代の義経役)

筆者は元アメリカ海軍少佐で、海軍認定のテロ対策教官も務めてました。
現在は日本の企業や市民団体にテロ対策を教えるコンサルタントとして活躍しています。
彼のホームページはこちら:http://www.rhumbline.co.jp/

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