【連載コラム】古の軍師が現代で恋のキューピットに!?最終話: 両親に会う

(第一話はこちら

photo20170321_1垂井旅行の後、私たちは晴れてカップルとなりました。 その後の全ては何もかもがとても順調で、予想以上の速さで進んでいきました。

私がすでに昌代さんを妻としてみているように、彼女もすでに私を夫とすると決めているように思えました。 私達はこれからの人生を一緒に計画し始めました。まず最初に行うべきことは、 島根県にある出雲大社へお参りに行くことでした。出雲大社は日本一の縁結びの神社として知られています。 実は昌代さんは私たちが初めて出会う三ヶ月前、出雲大社に願掛け旅行に出かけた友人に、 「将来の夫となる男性に出会えますように」という自分のお願いも代わりに行ってもらっていたのでした。

(後で教えてくれたことですが、この時の彼女のお願いの内容は、 「真面目に働く誠実な男性」。まさかこんなに年が離れた男性が与えられるなんて考えてもいなかった彼女は、 「年齢制限も入れておくべきだった」と言って笑っていました。)

日本には、 神社や仏閣にしたお願い事が叶ったときには、お礼参りといってその感謝を伝えにまたお参りをするという風習があります。 ですから私たちふたりは出雲に行って、今回の出会いをいただいた感謝を伝えなくてはなりませんでした。 そして私は、神様が昌代さんの為に選んだ人物が本当に私で良いのかどうかを問う必要がありました。 この出雲大社に関しては後のコラムで詳しく触れることにして、私達の出雲旅行はとても良かったと満足しています。 出雲に向かうための寝台列車の旅も、珍しく楽しいものでした。

私は自分が昌代さんのために選ばれたように感じました。交際を始めてから約半年後の、 翌年4月初旬には、彼女のご両親に正式に挨拶をしに行くことを決めました。 ご両親とは以前に一度だけ、彼女の母親の誕生日を祝う会で会った事があるけれど、 たとえ彼氏としてその場に参加することが許されたからといって、「お嬢さんを私にください」 とお願いすることが許されるとは限りません。私達の年齢の差がもう一度顔をのぞかせます。 なにしろ私は彼女のご両親と数歳しか違わないので、ご両親の複雑な心中くらい理解出来ていました。 再びやって来た私の運命の日は、4月10日に決まりました。

今回も自信が持てない私にとって、最も心強い助っ人はもちろん半兵衛公ですが、彼に会うために垂井まで足を運ぶ時間がありません。でも、半兵衛公の子孫ならば、きっといつでも近くで見守られているに違いありません。半兵衛公と直接繋がっている洋介さんならば。洋介さんは、「無事昌代さんと一緒になれたのは全て半兵衛公のおかげである」と私が確信している事を知っていました。第二の運命の日の二日前、洋介さんと連絡を取り、また訪れた私の人生をかけた大事な日に、是非半兵衛公のお力添えをいただきたいと説明すると、私の願いを代理で伝えてくれることを快く引き受けてくれました。 現代に生きる自分の末裔から託された願いを、半兵衛公は受け入れてくれたのでしょう。

運命の10日、私は昌代さんと彼女の実家に向かいました。彼女のご両親は、 昌代さんについてどう思っているのかと私に尋ねました。昌代さんと結婚したいと思っていると答えると、 それに対しての唯一の質問は、それはいつ頃になりそうか、というものだけでした。
すんなりと昼食が始まり、食後にはなんと「おめでとう」と書かれたプレートが乗ったケーキが出てきました。 この昼食会の前日に予約しておいたのだそうです。結婚の許しを請いに行ったその日に、 ふたりを祝福するケーキを出してもらえるなんて、誰が想像できたでしょうか。
その後昌代さんとご両親は、4月27日が籍を入れるのに良き日であると判断し、 昼食会から約二週間後、私たちは夫と妻になりました。

私達は入籍翌日に、神奈川県秦野市にある、出雲大社相模分祠に参拝し結婚の報告をしました。 前年に私達がお礼参りに出かけた出雲大社は、島根県まで足を運べない人のために全国に支社を設けています。 数週間前に、この秦野市の分祠が、神奈川県を特集したテレビ番組で紹介されていたのを見かけたため、 私はその存在を知ったのでした。私達の家からは車で一時間ほどのところでした。 住所は違うかもしれませんが、同じ神を祀る神社です。
そして5月中旬には、昌代さんとポンチョ君とジャックダニエルと共に、 私達のもうひとつの大切な場所である垂井の禅幢寺へ向かい、半兵衛公の墓前で結婚の報告と感謝を伝えました。

photo20170321_2この物語を締めくくる最後の写真は、半兵衛公のお墓参りの後に禅幢寺の境内で撮った私達二人の写真です。

読者の皆さま、戦国時代に名を馳せた軍師・竹中半兵衛公が、現代にて私と昌代さんを繋ぐ橋渡し役を務めてくれた、 長く複雑なこの話に付き合っていただきありがとうございました。近いうちにまたこちらのコラムでお会いしましょう。

そしてもし岐阜県においでの際は、少し足を伸ばして、半兵衛公が眠る禅憧寺を訪れてみてはいかがでしょうか。 きっと半兵衛公もあなたに会えるのを楽しみにしているはずです。

 

最後に、竹中半兵衛公に心よりお礼申し上げます。

追記
私と洋介さんが乗ったタクシーの運転手が、「歴女達が日も落ちて薄暗い中、半兵衛公の墓に参拝しに禅幢寺を訪れる」と言った話を覚えていますか。
その時私は「本当に半兵衛公に会えると思っているのかも」と冗談を口にしました。後日洋介さん親子が禅幢寺を訪れた時、そこで一人の歴女に会いました。 遠い町の市役所で働いていたその女性は、半兵衛公を愛するがあまり、仕事を辞めてでも垂井へ引っ越して来たいと述べたそうです。 (後に彼女は実際に垂井に引っ越しました。)
女性は、半兵衛公はあの有名な一の谷兜を被り、祠のすぐ後ろに立っている、と洋介さんに言いました。 そして「そういえば、あなたは彼のような目をしているわね。」と。

再追記
洋介さんと私は2016年9月11日にも垂井宿場祭りに参加しました。 その際、私は運の良い事に洋介さんの妻と、彼らの子供達と共に半兵衛公のお墓に参拝することができました。
(もちろんジャックダニエルを一本持参しました。)

お墓参りを済ませ、洋介さんが禅幢寺の前住職の奥様に感謝の意を伝えに行くと、 珍しい事に禅幢寺の本堂の中を見てみないかと誘われました。祭壇に向かい参拝する時に、 祭壇上に3つの家系の紋章があることに気が付きました。それは竹中家の紋章と、豊臣の紋章と、 源の紋章でした。そして、お焼香立てと小さな鈴が置かれている祭壇の横には文字が書かれていました。 洋介さんは家族の代表としてその小さな祭壇に向かって行き、 鈴を鳴らし祈ったのでその文字には気が付きませんでした。2,3歩後ろでひざまずいている私はその文字に気付き驚愕しました。 それを直訳するととてもドライな意味になってしまうのですが、彼の心情を察して訳すると 「黒田長政より心を込めて感謝する」。身をもって歴史を感じた経験は私の人生において数回しかありません。 これはそのうちの貴重なひとつです。

禅幢寺
〒503-2107 岐阜県不破郡垂井町岩手1038-1
TEL 0584-23-0129

筆者は元アメリカ海軍少佐で、海軍認定のテロ対策教官も務めてました。
現在は日本の企業や市民団体にテロ対策を教えるコンサルタントとして活躍しています。
彼のホームページはこちら:http://www.rhumbline.co.jp/

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